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05 博士たちと議論するキリスト ⑦


 この人のことが、どうしようもなく好きだ、と。



 いつでも幸せと一緒に、こんな風に絶望を感じてる。お兄ちゃんに幸せになって欲しいって、そう思ってるのは本当。だから、芸術の世界に戻ろうとしてるお兄ちゃんの邪魔をするのは、いけないことだ。


(それなら、どうしたら、隣にいさせてくれるの……?)


 そんなことを考えて、無意識に見つめていても『どうした?』とでも言うような顔で首を傾げられるだけ。私はいつものように『なんでもないよ』と首を振って、心を閉じ込め直す。何をしても、この心は届かないし、届いちゃいけない。それでも、誰より近い場所に立ち続けていたいと思うなら……私が『そちら側』に行くしか、ないのかもしれない。


(そんなの、どうやって?)


 私が今から絵とか彫刻を学ぶのは、正直に言って無理だ。いや、無理なことなんてないのかもしれないけど、そもそも興味がないし、そんなのお兄ちゃんが喜ばないだろうっていうのは私にだって分かる。それなら私にできることなんて、一つしかない。


(本気で、声楽家を目指すこと……)


 ついに、この時が来てしまったと、思った。いつかは向き合わなくちゃいけないと、思ってた。それでもずっと、先延ばしにしてごまかして、遅すぎたくらいなのかもしれない。


 歌うことは好きだ。私の歌を聞いた人は、才能があると言ってくれるし、そのことは素直に嬉しいと思う。それでも、いわゆる『プロ』を目指すのか、仕事として一生付き合っていく覚悟があるのかなんて、そんなものあるはずもなくて。


 私がプロになんてなれるはずがない……お兄ちゃんですらプロとしてやっていくのに、限界がきて絵を描くことをやめてしまった。それに、お兄ちゃんから絵を奪い続けてきた私が、自分だけ好きなものに打ち込もうって、そんなこと許されるはずがない。


 そう、思ってた。こんなの、みっともない言い訳でしかないって、もう私にも分かってる。私はただ、怖かっただけ。プロの世界へと足を踏み出すってことは、自分の実力で戦っていかなきゃいけないってことで、成功するのも失敗するのも自分の責任。そんなの、どんな仕事に()いても同じなのかもしれないけど、少なくとも『みんな』とは違う道を歩いていかなきゃいけないことになる。


 芸術部に入った新入生二人は、いろんな意味で私をぐらつかせていた。八神奏と神代梓……二人とも、とっくの昔に私が立ち止まってる場所なんて通り過ぎて、自分がどんな人生を歩いていくのか自分で決めて、迷わずに突き進んでる。


「悪かった」


 不意にお兄ちゃんが、真剣な表情を浮かべてそう言った。私は、お兄ちゃんが何に対して謝っているのか、分からなくてただ戸惑う。


「お前のこと、(かば)ってやらなかった」


 その言葉の微妙なニュアンスに、指先まで冷えていくような感覚がした。庇って『やれなかった』じゃなくて『やらなかった』と、お兄ちゃんは確かにそう言った。でもそれは、何となく分かってたことだったから、私は無理やりでも笑顔を浮かべて反応できた。


「ううん、私が悪かったんだし」


 出来ればもう、この話は終わりにして欲しいと思ったけど、お兄ちゃんにとっても引っかかる出来事なのか、引き下がってはくれなかった。


「いや、お前も間違ってないのは分かってたんだ。それでも、止めなかった」


 私はお兄ちゃんの言葉に、思わず顔を上げた。それならどうして、と。その言葉の先を、聞いてしまったら後戻りができないような気がして、それでも心の準備なんて全然できてなんかいなかったのに。


「……あいつらは芸術家だからな。許してやってくれ」


 ドンっ、と。心臓を()かれたような気がした。


 いま、ハッキリと線が引かれたんだと、きっとお兄ちゃんは気付いていなかった。お兄ちゃんがそれを口にさえしなければ、まだ少し考える時間もあったのかもしれない。でも、もう『たられば』の話をすることもできなくなってしまった。


 覚悟を決めるしかない。今この瞬間に引かれた、お兄ちゃんと私の間の線を……芸術家の世界と私を隔てる境界線を越えるためなら、なんでもするって覚悟を。追いかけよう……もう、間に合わないのだとしても、ここで立ち尽くしていることが耐えられないから。


「大丈夫。明日はちゃんと、参加するから心配しないで」


 私が笑ってそう言うと、明らかにお兄ちゃんがホッとしたのが分かった。いつものお兄ちゃんがそこにいるはずなのに、どうしようもなく遠い場所にいるように感じたのは、きっと気のせいなんかじゃなかった。


 *


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