05 博士たちと議論するキリスト ④
「多数決とは、少数派の意見を存在しなかったことにするものです。ブレインストーミングとは、誰の意見も否定しないと言えば聞こえが良いですが、反対意見の存在を否定すると言うことです。誰とも意見を戦わせずに、何一つ吟味することなく多数派に流され、あるいは全ての意見を切り貼りし、他者にすり寄り迎合し妥協して生まれたものに、いったい何の価値がありますか?そんなもの、芸術だなんて私は断じて認めない」
きらめく黒曜石のように、冷たく鋭い神代の瞳が突き刺すような視線を灯に向けた。それは、永久に平行線で理解し合うことのできない存在に、それでも諦めずに言葉を投げかけることの虚しさとやり場のない怒りを抱いた瞳だった。
「妥協は、平和と停滞は生んだとしても、新しい何かを生み出すことなんて出来ない。誰かの心を震わし、爪痕を立てて、世界を変えてしまうような何かを、探し求めて足掻くことが芸術なのではないですか。いえ、話を難しくし過ぎてしまいましたね……簡単に言えば、自分の好きなものを『好き』と言えない、それどころか自分の意見すら持たない方は、この場に不要だと言うことです。我々の邪魔をしないで頂けますか」
いつもなら、と言うかこの一週間、こんな場面に出くわす度に、真っ先に慌てて仲裁に入っていたはずの来栖でさえ、困ったような表情を浮かべて黙り込んでいた。
「……ごめんね」
無理な笑顔を浮かべた灯は、立ち上がって背を向けた。
「余計なこと、言っちゃったね……今日は私、帰るね」
鞄を取って、美術室の出口に向かう。コツコツとローファーが立てていた規則正しい足音が、いつの間にか早くなって遠ざかっていく。その音が消えるのを、俺は息を止めて聞いていた。俺は止められなかった……いや、止めなかったんだ。
灯が傷つく未来がそこにあって、目の前で灯を傷つける言葉が並べられていたのに、俺は神代を止めようとさえ考えなかった。傲慢で青臭くて、それでも真理で真実だと思ったから。神代の語った言葉は、どれもこれも俺の言葉だ。俺が、灯に消えない傷をつけた。俺が線を引いた……お前と俺達は、違うんだって。それも、自分の手を汚さない形で。
罪悪感を感じることさえ、罪であるような気がした。自分が本当に、最低最悪の所まで落ちきっていたのだと、ようやく自覚させられたような。そんな、吐き気のする現実だ。
「先生」
神代の声に顔をあげて、呼吸が止まった。その、いつも自信に満ちたような瞳が、迷い傷付いたように揺れていた。
「私は、あなたの妹を傷付けました。それも、彼女が反論のできないやり方で……軽蔑、しますか」
ああ、と。今更のように、俺は気付いた。
こいつは本当に、俺から見捨てられることを何より恐れているのだと。それでも、芸術家としての誇りを持って、自分が正しいと信じるもののために言葉を尽くした……まだ、こいつは高校生になったばかりだってのに、俺よりずっと覚悟ができてる。
でもそれは、神代が傷付いてもいい人間だってことじゃない。どれだけ覚悟が出来てたって、傷付けば痛いし、なかなか消えてくれない。俺はそんな言葉の刃から、彼女達を守らなくちゃいけないはずだった。
「……しないよ」
俺は努めて柔らかい声で、神代と視線を合わせた。そこには、どこにでもいるような高校生が、ひと一人を傷付けてしまった痛みと、俺には身に余るような畏れと敬意が混じり合った瞳で立ち尽くしていた。
「軽蔑なんか、しない。お前は確かに、正しいことを言ったよ……お前が言ってくれなきゃ、俺がもっと酷いやり方で、灯を黙らせていたかもしれない。でも、それじゃ駄目なんだよな。これじゃ、本当に教師失格だ……あんなこと、お前に言わせて悪かった」
俺が頭を下げると、戸惑うように神代が視線を彷徨わせた。どうして俺が謝るのか、分からないって顔だった。分からなくても、いい。
「俺は絶対に、お前のことを責めたりはしない。お前はお前の信念を貫いた。その点を、尊敬こそしても軽蔑なんかしない。ただ、灯の言ってることも一般的には間違ってない……それは、お前も分かってるんだろ?」
「……ええ。普通に考えて間違っているのは、私や八神の方でしょう」
俺は頷いて、これならきっと大丈夫だと思った。
「自分が世間ズレしてるって、自覚してることは大事だな。ただ、お前が自分でも言ったように、迎合して妥協することが世界の全てじゃない。それを認めたくないって思うなら、貫け。お前は、それでいい」
「っ……」
見開かれた黒曜の瞳が、どうしようもなく綺麗だと思った。俺の言葉の奥に何があるかを、見定めるように真っすぐな瞳。世界で一番に綺麗なものを、この世界の真実と真理を探し求めるための瞳だ。言葉で何かを覆い隠せるほど、俺は器用な人間じゃないから、だから俺は何も恐れずに見つめ返すことができるだけ。
こいつが何を抱えて、俺の何に憧れ目指して、ここまで来たのか俺は知らない。それでも、こいつは他でもない俺の教え子だ。誰が否定するようなことでも、俺は肯定しよう。教師として否定すべきことであっても、芸術家としての俺が『正しい』と叫ぶから。
その想いの、どれだけが伝わったのかは分からなかったが、やがて神代は詰めていた息を細く吐き出して背筋を正した。




