04 我々は(中略)どこへ行くのか ⑥
「ううん、なんでもない」
なんでもない。本当に、なんでもない。
だって、こうしてるだけで、こんなに幸せだもの。
「そうか?なんか、考え事してるっぽかったから」
「ん……新入部員、来るかなぁって」
私は、いつも通りの口調で、さっきまで考えていたこととは全然関係ない話を口にした。お兄ちゃんは私の言葉に、少しだけ考えてからキッパリ言った。
「来ないだろ」
「そんなキッパリ?」
私が首を傾げると、お兄ちゃんはダラリと伸ばした指先をくるくると器用に回しながら、どこか冷めた目で言葉を続ける。
「今年からは、去年以上にな……芸術科が新設されただろ。だから、今まで以上に芸術特化の人間と、関わりのない人間の区別が強くなる。芸術を部活にするほど好きなヤツは、ハナから芸術科を受験して落ちるか受かるかしてる。それで、芸術科に来てる奴らは部活なんて『お遊び』に自分の能力を安売りしてる程ヒマじゃない。あいつらはプロだ。もしくはプロになろうとしてる」
私は想像してた以上にお兄ちゃんが芸術科の生徒達のことを考えていて、そして認めていることに心底驚いていた。この一週間で、いったい何があったって言うんだろう。
「そっか、それじゃ……難しそうだね」
なんとか、そんな言葉を返すことしかできなかった。それくらい、冷めた瞳の奥にいるお兄ちゃんは、真剣にどこかを、何かを見つめていた。
(なんだか、昔のお兄ちゃんみたいだ……)
少し考えていることの種類は違う気がするけど、怖いくらいに真剣で、でも一番かっこよかった時のお兄ちゃんの姿を思い出す。この世で一番きれいなものと、その瞬間のことだけを考えて、どこか遠いここにあってここにはない場所のことを考える時の目だ。
「ああ……でも、やる気出してる来栖には悪いけど、あいつらにとっては余計な回り道がない方がいいんだとは思う。結局、とことん自分で自分と向き合って『何か』を見つけられた人間だけが残る……そういう世界で、生きていくしかないんだからな」
お兄ちゃんは、小さく息を吐いた。
「悪い、ちょっと疲れた」
そう言って、今度こそ目を閉じるお兄ちゃんに、私は「おやすみ」と囁いた。
本当に疲れ切っていたのか、すぐにかすかな寝息を立て始めたお兄ちゃんに、私は美術室に常備してある毛布をそっと肩からかけた。それから、すぐそばの椅子に音を立てないように注意して座って、眠っているお兄ちゃんをボンヤリ眺める。私だけの、秘密の時間。
静かだ。この席に座って、こうしてお兄ちゃんが眠る姿を、レゾナンスの映し出す仮想世界で遊ぶ姿を、退屈そうに外を眺める瞳を、どこか遠くへ行きたいと望みながらどこにも行けずに立ちすくむ背中を、ずっとずっと見つめ続けてきた。
私が生徒でなくなったら……あとたったの二年で、こんな静かで平和で幸せな生活は終わってしまう。私は大学生になって、きっとその後は無難に大人になって、それから、それから……?
(私は、どこに行けばいいんだろう)
最近、そんなことばっかり考えてる自分がいる。止まっていたはずの時間が、少しずつ動き出しているのには、私もお兄ちゃんも気付いてる。何もかも変わらないままではいられなくて、だから少しだけ、私も疲れてしまったのかもしれない。
(でも、ここだけは……まだ大丈夫)
きっとここが、この美術室が最後の止り木だ。きっとここだけは、ずっと変わらずに一息吐ける場所で、こんな風に静かに外の世界よりずっと緩やかなスピードで時間が流れていく。
そう、思っていた――
*
「灯ちゃん、先生っ、聞いて下さい!新入部員が!」
「えっ」
結ちゃんがキラッキラの笑顔で美術室に駆け込んできたのは、それから僅か二日後のことだった。今は昼休みで、私もお兄ちゃんも誰も来ないはずの美術室でユルユルダラダラと、つまりいつも通りに午後の時間を楽しんでいたところで。
「ポスターを見て、私のところに来てくれたんです!それも二人も!」
私とお兄ちゃんは、顔を見合わせた。こんなことって、あるんだろうか。
「これから入部届を持ってきてくれますよ。これでちゃんとした活動ができますねっ!今からワクワクしちゃうなぁ……」
「え、ちょっ今から?」
本当に新入部員を連れてくるなんて思ってもいなかったらしいお兄ちゃんが、鳩がマシンガンでハチの巣にされて跡形もなくなっちゃった、みたいな無残な感じで呆けている。まだ何も始まってないのに満身創痍だよ、お兄ちゃん……
コンコン
今どき珍しいかもしれない、おざなりじゃないノックが響く。
「失礼致します」
「失礼しまーす。入部届出しに来ましたっ」
そんな声と共に入ってきた女の子二人を見て、私達兄妹はあんぐりと口を開けた。
「なっ、お前ら――」
言葉を失うお兄ちゃん。それもそうだろう……押しが強いというか、諦めが悪すぎるというか。立っていたのは、お兄ちゃんに弟子入りを断られ続けた二人の『天才少女』
(さよなら、私の静かな放課後……)
思ってたよりもずっと早く、それも残念な形でやって来た二人きりの穏やかな時間の終わり。それが、本当の戦いの始まりだったなんて、この時の私はまだ何も知らなかった。
*




