73話 ただの僕
「恭哉くん……! もしかして、これって……」
ドレッサーの引き出しの奥に、本のような物が引っ掛かっている。
「本……? これのせいで引き出しが開けづらかったみたいだね」
破れないように慎重に、僕は本を引っ張り出した。
本のように頑丈な造りをしているが、どうやらこれは日記帳だったようで、裏側には斜めに傾いた字で『桔梗』と名前が書かれている。
「母さんの、名前……。母さんの、日記……」
これを読んでしまったら……きっと、後戻りは許されない。
それでも、『知りたい』という欲求が僕の背中をぽんと押した。
「恭哉くん?」
この世界の謎を、母さんがどんな人だったのかを、僕は何を忘れてしまっているのかを、ただ……知りたかった。
「人の日記を見るのは、なんだか気が引けるけど……母さんのことがわかるなら……」
「……うん。恭哉くんのお母さんなら、許してくれると思うよ」
「……え?」
姫花なら躊躇うかもしれないと思っていた。
そんな思い込みからか、僕は少し驚いて姫花のことを数秒見つめてしまった。
姫花なら止めてくれるかもしれない、そうしたら無理に日記を見たりしない、姫花に止められた事を理由にして、仕方がないと自分に言い聞かせて、先送りにしようとしていた自分に気づく。
愚かにも、そんな狡い考えがよぎっていたのだ。
「もしかして……本当は、見たくないの……?」
全てを見透かしたかのように姫花が言った。
「どう、して……そう思ったのかな」
「なんだか、私に……止めて欲しそうに、見えたから……」
じくり。
心臓を握られたような気分だった。
透き通った姫花の瞳に、薄汚い僕が映っている。
心の奥底に隠された薄っぺらな部分を姫花には見透かされたくなくて、僕は初めて自分から目を逸らしていた。
何が覚悟は出来ている、だ。
いつか宣言した誓いが、ぼろぼろと音を立てて虚しく崩れていく。
「恭哉くんに目を逸らされるの……初めてだね」
「……そうだね」
僕がバツが悪そうに応えると姫花が笑った。
(……びっくりした。恭哉くんなら、そんなことはないよ、っていつも通りの王子様みたいな笑顔を貼り付けて、これ以上踏み入ってこないでって、優しく私のことを拒絶するのかと思った)
「……ふふ。嘘はつかないんだね」
「……君には、つけないんだ」
僕は独り言のように、ぽつりと呟いた。
「その瞳が、僕の嘘も見抜いてしまいそうで……。見抜いた嘘を何も言わずに受け入れてくれそうで……。嘘をついて、遠ざけてしまえば、君は居なくなってしまいそうだから」
瞳とくっついてしまいそうな程に眉を下げると、僕は弱々しく微笑んだ。
なんだか、凄く情けない気持ちになる。姫花は今の僕を見て、どう思っているんだろう。
ちらり、と姫花の様子を伺うと、何かを考え込むように床を見つめているものだから、僕からその表情を盗み見ることは出来なかった。
(……こんなに辛そうに笑っている恭哉くん、初めて見た。……なんか、嫌だ。……莉奈ならこういう時、なんて声をかけるんだろう。…………そうじゃないでしょ。今、ここにいるのは私で莉奈じゃない。私なら……。私は、どうしたいの?)
姫花はおもむろに立ち上がると、ぎゅっと掌を握って、ステージの上に立つようにソファの上へと飛び乗った。
(……恭哉くん、ちゃんと私を見て……!)
姫花の白い素足が、窓から入ってくる陽射しに照らされている。
驚いて思わず立ち上がった僕の手をとって、姫花は今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
「いなくならないよっ……!」
慣れない大きな声は掠れてしまって、叫んだといえる程ではなかったけれど、切実な想いが伝わってきた。
同じ高さになった目線が、しっかりと僕の瞳を捉えていた。
「私は……いなくなったりしないよ……!」
窓から吹き込んだ風で、姫花の長い髪が揺れる。
陽射しのせいか、涙なのか、潤んだ瞳がキラキラと輝いていて、仕草一つ、表情一つ、言葉にすれば消えてしまいそうな程に綺麗だった。
姫花のか細い腕が僕の腕を引き寄せた。
抵抗したらビクともしないだろう弱い力で腕を引かれていたけれど、僕はされるがままに身体を委ねた。
なんで、こんなに苦しいのだろう。
僕は、一体何に怯えているのだろう。
……この感情を、人はなんと呼ぶのだろう。
ただ、無性に泣き出したくなるのを我慢して、僕はそっと姫花の背中に腕を回した。
どれくらいの間こうしていたのか。
情けないところを見せてしまったからか、今もまだ抱きしめられているからか、冷静に自分の状況を整理していくと顔が熱くなる。
「ごめんね、心配かけてしまって……」
えも知れぬ不安感から、なすがままに姫花に委ねてしまったことが気恥しくて、情けなくて、自然と声が小さくなってしまう。
「……恭哉くんは嫌かもしれないけど、私……安心したの」
「……安心?」
「うん。恭哉くんが、完璧な王子様じゃなくて」
「ははっ……。これは手厳しいなぁ」
参ったなぁ、と眉を寄せると、姫花が慌てて両手を横に振った。
「悪い意味じゃないよ……! 私は、完璧な恭哉くんじゃなくって、ありのままの姿が見れて良かったなぁって思ったの!」
僕の言い表せなかった不安感を姫花が言葉に出していく。
「……大切な人の事を知らないままなのは寂しいけど、知らないことを知るのは怖い、よね……。それが世界の謎に繋がっているかもしれなくて、それを私達だけが知ってしまうかもしれなくて、せっかく今が楽しいのにこのままでいられないかも……なんて。そんなのって、怖い……よね」
そうだ。
最初は僕の傍にいるのは真人だけだった。
それがいつの間にか、姫花や莉奈、美樹と優人と過ごすようになって。世界の謎について語り合ったり、同じ考えを持つのも嬉しかった。他愛のない話をして、皆で笑い合う日々が楽しくて仕方がなかった。
知らないことを知りたい。
最初はそれだけが願いだった筈なのに……知ってしまったらこの時間が終わってしまうんじゃないか、何かが変わってしまうんじゃないか。
いつからか、そんな事を考えるようになっていた。
「知らない方がよかった、なんて言えるほど、私も恭哉くんも……器用じゃないんだよね」
抱きしめる腕が緩み、姫花との距離が離れる。
その言葉にはっとして顔を上げると、困ったような嬉しいような複雑な感情の入り交じった表情で、はにかむ姫花と目が合った。
「そう、だね。……だから、僕は全てを知ってしまうのが怖いのかもしれない」
本当だったら、姫花にこそ格好悪いところなんて見せたくはなかった。けれど、その微笑みが、僕の弱さを肯定してくれるのなら……。
「ねぇ、姫花。情けなくて臆病で格好良くもない、ただの僕だから……。一緒に知ってくれるかい……?」
「うん、一緒に知ろう。……この、世界のことを」




