63話 優しい人
「残酷なあいつと、約束を守れなかった臆病者の話は、これで終わりだ」
そう言うと、真司は寂しそうに笑った。
愛する人の『死』を見届けて、それを忘れないように日記に書き殴って。
それがどんな気持ちだったかなんて、想像するまでもない。
もしものことを考えて、莉奈と真人はお互いを見つめ、交わる視線をさっと逸らした。想像するなんて、怖くて出来そうになかった。
「その後は、どうしたんだ……」
真人が、やっと重い口を開いた。
「その後はお前も知っての通り、ろくでもない父親の完成だ」
「……ッ!そうじゃない……!」
震える手で父へと掴みかかった真人の表情は、今にも泣き出しそうな、後悔しているような、そんな表情だった。
「そうじゃ、ない……。あんたは……、父さんは……、そこまで知ってしまって、母さんを死なされて……何も、しなかったのか……?」
(俺の望む答えが欲しい訳じゃない。ただ……自分の事を臆病者だなんていう奴が……、なんでそんな顔をして俺のことを見るんだ……。なんで、そんな……見たこともないような顔で笑うんだ)
くしゃっと眉間に皺を寄せて、困ったような、愛おしそうな表情で微笑む父親を、真人はやり場のない気持ちを抱えて見つめていた。
「……臆病者だと言っただろう。あの人に刃向かう勇気がなかっただけだ。……刃向かう為の理由も、勢いに任せられるような感情も、全て忘れてしまったからな……」
自嘲気味な台詞を吐き出した真司に、畳み掛けるように真人が問いかける。
「本当にそれ、だけか? 父さんみたいな人が、その日記を読んで、そこまで知ってるあんたが……。本当にそれだけで、復讐だとか……この世界を歪ませてる奴に立ち向かうとか、しなくなるのか……?」
望む答えが欲しい訳じゃないというのは嘘だ。
真人は縋るような視線を真司へと向ける。
「……あぁ、そうだ」
静かに告げられた真司の言葉に、真人は顔を顰めて俯いた。
「……悪い。頭、冷やしてくる……」
バタン、と扉の閉まる音が、静まり返った部屋に響く。
「……もっと怒るか、罵られるかするかと思ってたんだかな」
罵って貰いたかったのだろうか。時に、優しい言葉よりも、厳しい言葉が救いになることもあるのだと、莉奈は拍子抜けした様子の真司を見ると、小さな声で告げた。
「しないよ……。真人とお父さんは、そっくりだもん……」
「そう、だな……。だが、真人は俺なんかよりもずっと器用で、優しくて、人の事を考えられる」
「そんなことないよ。普段の真人は確かに器用かもしれない。だけど、お父さんと接する時は凄く不器用だし、お父さんだって、優しいよ。……お父さんと真人はそっくりだよ」
「……そう、か。そうは思えないんだが、莉奈が言うのなら、そうなのかもしれないな……」
そう言うと、少しだけ嬉しそうに真司の口元が綻ぶのが見えた。
「莉奈、お前は聞きたいことはないのか?」
「え……? 私が、知りたいこと?」
「お前の母親を、俺がどうしたのか。とかな」
そう言った真司は、莉奈が文句をいいやすいように、わざと悪ぶっているように見える。
「うぅん。別に聞かなくてもいいの。……だって、お父さんは、お母さんのこと、悪いようにする人じゃないって知ってるから」
「……そうか」
真司は意外そうな、どこか納得したような表情で、片手に持ったビールをぐいっと流し込んだ。
「……しっかりと、埋葬しているから安心していい」
「埋葬?」
「あぁ……埋葬というのは弔い。つまり、莉奈の母親が安らかな『死』を迎えられるように祈ってある、ということだ」
「うん。ありがとう、お父さん」
邪気のない笑顔を浮かべる莉奈に、真司はぽつり、と呟いた。
「日記に書いてある桜は……。莉奈……少し、お前に似ていたようだ。きっと、お前みたいに、無邪気に笑ったり、泣いたりして、感情が豊かだったのだろう」
「……そっか、似てるなら嬉しいな。だって、私はお父さんの娘で、真人の妹で、二人は大切な家族なんだもん」
そう言って嬉しそうに、そして、寂しそうに笑う莉奈を見て、真司の表情が曇っていく。
「莉奈……。俺はお前を娘だと思ったことはないぞ」
「え……?」
唐突に告げられた真司の言葉は、誰が聞いても言葉足らずで、傷ついたような表情をする莉奈に、真司は慌てて話を続けた。
「すまない。いつも言葉が足りないと怒られるんだ。……お前は大切な家族だが、私の娘ではない。大切な預かり物だ」
そう言うと、真司はにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて、優しく莉奈に語り掛ける。
「だから、莉奈。お前は好きにしていいんだぞ……。それでも、真人の傍にいたいとお前が願うのならば、その時は、改めて私の娘になってくれ」
「へ? それってお父さん……どういう……」
「あいつは俺に似ている。恭哉くんとばかり遊んでいるからな、恋愛なんてしてこなかっただろう。……俺も、あいつも、本当に大切なものを自覚するのが下手くそなんだ」
真司の言おうとしていることを察して、かぁぁ、と莉奈が頬を赤く染めた。
「だから……あいつの傍にいるのは、俺にとっての桜のような……莉奈、お前がいいと思っただけだ」
「な、なななに言って……!」
「ふっ……。つまりは、お前次第だと言うことだ。……そうやって、家族だ、妹だと、最初から諦める必要はないと思っている。だから、そんな寂しそうな顔をするな……」
くしゃくしゃと莉奈の頭を撫でる手は、少しだけ乱暴だったけれど、不器用で、優しくて、少しだけ真人に似ていた。
「あのね、お父さんはやっぱり優しい人だと思うんだ」
「……なんだ」
「これは、あたしの想像でしかないけど……。もしかして、真人が……人質、だったんじゃない?」
真司のはっとした表情が、莉奈の想像が正しいことを裏付けていた。
「やっぱり……。そうじゃなきゃ、学校の管理の事とか、この会社の事とか、お父さんが真人に何も言わないのも、桜さんの復讐しようとしない事も、あたし達に辞めてほしそうなのも……全部、相手の危険性がわかってるから」
「そうだな……。莉奈、あいつには……真人には黙っていてくれないか? 気に病むくらいなら、薄情な父親のままでいたいんだ」
そう言って、優しく微笑む真司に、莉奈は無言で頷いた。
「お父さん、哉斗さんって、どんな人なの……?」
「……優しい人、だったと思う。桔梗さんを大切にしていて、この世界の全ての人に悲しい想いをして欲しくないと言っていた」
「そんな人が、なんで……」
「思えば……あの人は神様に近くなってしまっていたんだろう。人の身に余る責任を一心に引き受けて、全ての人の変わりに記憶を引き継ぎ続けて、あの人が正気だったのかすら分からない」
愛する人を『死』へと追いやった人。
それでも、愛する人の記憶を失い、哉斗と過ごした日々を覚えている真司にとって、その苦悩を理解しようとしてしまうのは自然なことだった。
「ただ、お前達にはあの人に近づいて欲しくないよ。今の哉斗さんは、手段と目的が分からなくなっている。目指す場所を失ってしまっているだろうから……」
写真立ての中で笑い合う若き日の自分達を見つめて、真司は遠い目をして呟いた。
桔梗の隣に映る哉斗は、笑っていただろうか。それすらも朧げで、真司は破かれた写真をそっと撫ぜた。
「……桔梗さんが死んだ、あの日から」




