53話 心を動かして
図書館の通路の一番奥の隠し部屋へと繋がる絵画の前に、優斗と美樹は辿り着いた。
「美樹ちゃん、大丈夫〜? 手が、震えてる」
震えている美樹の手を見て、優斗がその手をそっと取った。照れる余裕もないのか、美樹の手はかたかたと小刻みに震えているばかりだった。
「……大丈夫です。これは、武者震いですから」
それは、どう見てもただの強がりだったが、その強がりが今の美樹を動かす原動力なのだろうと、優斗は黙って受け入れることにした。
「それにしても、本当に吸い込まれそうな絵だね〜。風景画といってもいい絵なのに、忘れられた寂しさみたいなものを感じるよ。……まるで、そこに階段があるみたいだ」
ただの古い本棚と階段を描いた絵画だということしかわからない美樹とは違い、優斗にとってはこの絵に使われている技術や意思が読み取れるのだろう。
「そんなに凄い絵なんですか?」
「うん。この吸い込まれそうって思わせるのは、この絵に視線誘導の動線が組み込まれているってことなんだよ〜。絵画は感性だけど、見る人に伝わる絵を描くには理屈に沿った技術も必要なんだよね〜」
「視線誘導、ですか……」
「このメインになっている階段部分の歪みや、奥へと続く僅かな色の置き方、この技術でボク達人間はそこを目で追ってしまうから、吸い込まれそうって思うんだよ」
いつになく饒舌に語り出す優斗は、日頃から真剣に絵画の勉強をしているのだろう。
「……ボクも、こんなふうに人の心を動かす絵を描きたいな」
「優斗くんなら描けますよ。……根拠の無い励ましなんかじゃないですよ? だって、前に見せてもらった絵に、わたしはどうしようもなく心が動かされたんですから」
「ボクが見せた絵って……。『意思』ってタイトルをつけていたあの絵のこと?」
「はい。横顔の女性の絵のことです」
現実での顔合わせから、まだ時間があまりたっていなくて、少しだけよそよそしさが残っていたあの時。優斗から見せたい絵があると言われて、放課後に見せてもらった絵を思い出しながら美樹は言った。
その絵の女性は真っ直ぐと遠くを見つめていて、その眼差しは前だけを見据えていた。
「ふふっ。あの絵をいい絵だと思ってくれたなら、それは……間接的に美樹ちゃんのおかげかな」
そう言うと、優斗はくすりと笑った。
「わたしの、ですか?」
「だってあれ、まだ見た事のない美樹ちゃんをモデルにして想像で描いたんだもん」
「えっ?」
「責任感が強くて、強い意志を持って、夢だけを見据えて真っ直ぐに突き進んでいく。電話でしか話したことはなかったけれど、そんな美樹ちゃんが格好よくて、ボクは憧れたんだ」
「そう、だったんですか……」
手放しに褒められることが照れくさくもあり、それでも、そう見て貰えていた事実が嬉しくて、美樹は恥ずかしそうに視線を落とした。
「だから、ボクはきっと……美樹ちゃんの姿を知らなくても、君のことを一人の人間として好きになったんだ」
会ったことがなくても、見た目を知らなくても、異性としてだけではなく、内面を見て人間として尊敬していてくれた。それは、自分に自信の無い美樹にとって、何よりも嬉しい言葉だった。
二人の間に、心地のいい沈黙が流れる。
その沈黙を、最初に破ったのは優斗の方だった。
「と、思い出話はここまでだね〜。それじゃあ、美樹ちゃんの後悔に向き合おうか」
幼い頃の記憶を辿るように、美樹が絵画のズレている部分をパズルのようにカチリカチリと嵌めていく。
ガチン、と重たい最後のパーツが嵌るとともに、鈍い音をたてて二人の目の前に階段が現れた。絵とそっくりの大量の古い本でびっしりと埋め尽くされた壁に両側を囲まれていると、妙な圧力を感じてしまう。
「うわぁ〜。これは圧巻だねぇ〜」
「はい……。これを見るのは2回目ですけど、やっぱり……なんだか少し怖いですね」
独特な雰囲気の空間だからか、暗い階段への本能的な恐怖なのか、美樹は小さく身震いをした。
「ねぇねぇ、少し狭いけどさ、手を繋いでて欲しいな〜、なんて。ほら、ここってちょっと暗くて不気味じゃない? こうしていれば、安心するでしょ」
そう言って微笑む優斗は、暗がりを怖がっているようには見えなくて、あくまで優斗が自分の為にお願いをするという、さり気ない気遣いに美樹も自然と肩の力が抜けて、ふっと頬が綻んだ。
「ふふっ。……そうですね。手、繋いでいてくれますか?」
「うん、ありがとーね。美樹ちゃん」
にっこりと眩しいくらいの笑顔を向ける優斗に、美樹は適わないな、と小さく笑みをこぼした。
二人は手を繋いだまま、暗い階段を降りていく。所々、本棚の隙間に明かりが点々と光っているが、それでも光量は少なく、ひたすら地下へと続く階段にざわざわと胸の辺りが不安で押し潰されそうになる。
「それにしても、この本が全部……『死』に関係する本ってことなんだよね〜」
高く積み上げられた本棚が遠くまで続いているその光景は、過去の長い歴史がここにあるのだと感じさせた。
「どれだけの年月だったのかはわかりませんけど……『死』が普通に存在していた世界が、これだけ長く続いていたってことなんでしょうね」
カツンカツン、と二人分の靴音だけが石造りの階段に響き渡っている。
「見て、美樹ちゃん! あそこから少しだけ光が漏れてるみたい。もしかして、やっとどこかに繋がってるのかも……!」
優斗の指差す方を目を凝らしてみると、縦に細く光の線が見えていた。おそらく、扉の隙間から向こう側の光が漏れて見えているのだろう。
「なるべく、足音を立てないように。慎重に行きましょう……」
そろりそろりと、靴音がしないようにゆっくりと歩くと、二人は重厚な扉の前へと辿り着いた。
「……開けますよ」
美樹の言葉に、優斗が小さく頷いた。それを合図にするように、美樹は重々しい扉を身体全体で押すようにして、ギギッ、という鈍い音とともに扉がゆっくりと開かれた。
特別明るいわけではなかったが、暗い場所にいた二人は部屋の中の眩しさにぎゅっと目を細めた。




