52話 もう引き返せない
ふっ、と頭の痛みが和らいで、美樹と優斗は抱き合ったまま、くたりとお互いに体重を預けるように身体の力が抜けた。
(……ど、どうしてこんな状況に……)
内心焦りながらも、触れ合っているところから伝わる暖かさに、美樹の鼓動が早くなっていく。
盗み見るようにふと見上げると、美樹のことを見ないようにしながら、息を整えている優斗が目に入った。
優斗の首を、つぅ、と汗が流れ落ちる。至近距離で見ると意外にもがっしりとした肩に、筋張った腕、鏡で見るのとは違うごつごつとした鎖骨や喉仏に、急に異性を感じて顔が熱くなる。
(こうしていると、優斗くんはわたしと全然違う。男の人、なんですよね……)
全身が心臓になってしまったと錯覚するような、煩いくらいけたたましく鳴り響いている鼓動が、触れているところから伝わってしまいそうで、美樹はおずおずと優斗から身体を離した。
「……なんで、こんな感じになってたんだっけ〜? 抱きしめちゃってごめんね?」
「い、いえ……。わたしが、もたれかかってしまっただけですから」
身体は離れても、まだ顔の位置は近かった。絡み合う視線がこそばゆくて、美樹は視線を外しながら優斗の言葉に返事をした。
(顔が近くて、恥ずかしい……)
きっと、変な顔になってしまっていることだろう。そんな美樹の考えていることがわかるのか、優斗がくすりと笑った。
「ふふっ。もしかして、意識してくれていたのかな?」
「そ、そういうわけじゃ、ない……です」
「そう? ボクのこと、男として意識してくれてたなら、嬉しいな〜って思ったんだけど」
口では残念そうに言うものの、にやにやと笑みが溢れている口元から、美樹は自分の嘘がバレている気恥しさを誤魔化すように話を続けた。
「……距離が近くて驚いてしまっただけですよ。その、優斗くんが男の人なのは変えられないじゃないですか。だから……意識は、します」
「そっか〜。じゃあ、これからもっと意識して貰えるように頑張るから、覚悟しててね」
ぱちん、とウインクして魅せる優斗の表情が、いつにも増してキラキラと輝いて見えて、美樹は目が眩むような気がしてぱちぱちと瞬きをした。
「あっ……」
優斗の表情に見惚れてしまい、無意識で握りしめていたスタパットが、美樹の掌から落ちそうになる。
「……っと、セーフ。だね」
間一髪で優斗がそれを受け止めて、美樹へと返す。
「危ないところだったね〜。落としてたら音が鳴ってバレちゃうとこだったよ〜。……って、何にバレるんだっけ?」
何故か所々抜け落ちた記憶に首を捻る優斗は、ついたままになっていた美樹のスタパットの画面を見て、ぽそりと小さな声で呟いた。
「……美樹ちゃん。これに書いてある、ボク達が見つかりそうになって隠れることになった相手……。教授って、誰?」
「……え? 誰って……さっき会ったばかりで……あれ? これ、本当に十分前のわたしが書いたんです、よね……?」
「ボク達が揃ってわからないなんて、まさか……」
最悪の想定に、みるみるうちに優斗が真剣な顔つきへと表情を変える。
「ごめん、美樹ちゃん。駄目だ。……今すぐに引き返そう」
そう言った優斗は、普段からは想像の出来ない険しい表情で立ち上がり、その勢いのまま美樹をひょいと立ち上がらせた。
「一度立て直そう。……今、あそこに向かうのは無謀すぎる。美樹ちゃんを、危ない目に合わせたくないんだ」
こんな時ですら自分の安全を最優先で考えてくれている優斗に、心の奥が暖かくなる。美樹はこくりと頷いた。
「……はい。戻りましょう。わたしも、今は良くない気がします」
ガチャン。
鈍い金属音がして、二人の視線が音のした方向に釘付けになる。
音がしたのは、これから引き返そうとしていた図書館の出入口のある場所で、職員らしき人間が何故かこんな時間から施錠を始めたようだった。
「……そんな、出口が……」
次々に窓を施錠していく職員に、美樹の顔はどんどん青ざめていく。
「なんだか、手遅れだったみたいだね……」
優斗の額を冷や汗がつたう。
図書館の職員達は、ひそひそと情報交換をすると、何やら慌ただしく動き出して二人の前からいなくなった。
「……美樹ちゃん。もう、引き返せそうにないみたい」
「……そうみたい、ですね。……優斗くん、わたしの我儘で巻き込んでしまって……」
ごめんなさい、と言おうとする美樹の口を、優斗が人差し指で制止した。
「巻き込んで、って言ったでしょ? それよりも、ボクと一緒に覚悟を決めてくれるかな」
美樹は自身の頬をぺちんと叩いた。すぅ、と深呼吸をして、謝罪の言葉の代わりに真っ直ぐに優斗の瞳を見つめて言った。
「……巻き込ませて下さい。わたしと、あの隠し部屋の秘密を暴いて下さい……!」
そう言うと、美樹は覚悟を決めるように、スタパットの電源を切って、ポケットの奥へとねじ込んだ。




