§0.4 神の味噌汁(1/2)
長い追憶の果て、現在――。
その年の冬、樹は気象予報士試験の会場にいた。知識はあるが自信を裏付ける証明が欲しかった。
試験勉強は、ほとんど必要なかった。すでに大学院レベルの気象学を独学で修得していたからだ。むしろ問題は、実技試験での「実用的な予報」の書き方を覚えることだった。研究者の詳細な分析ではなく、一般向けの簡潔な予報文を書く――これが意外に難しい。
試験当日、樹は淡々と問題を解いていった。学科試験は満点に近い出来。実技試験でも、天気図を見た瞬間に24時間後の大気の状態が頭に浮かんだ。
桜の蕾が膨らみ始めた頃、合格通知が届いた。すぐに気象庁への登録手続きを済ませる。
後日、手元に届いた「気象予報士登録通知書」には、登録番号と共にその名が記されていた。
『気象予報士 水瀬樹』
通知書を眺めながら、樹は小さく笑った。
これで味噌汁の味を、もっと正確に調整できる。普通の人が聞いたら呆れるような理由だが、樹にとっては十分すぎる動機だった。
この頃には基礎理論は既に固まり、そして『MISO-AI ver.1.0』の開発は始まっていた。
MISO-AI:Multi-variable Interactive Sensory Optimization - Artificial Intelligence(多変数相互作用型感覚最適化人工知能)。
壮大な名前だが要は「おいしい味噌汁を作る」ためのAI、読み方はそのまま「ミソ・エーアイ」である。
ベースとなったのは、かつて母の腎臓病対応味噌汁を完璧に管理するために開発した栄養計算AIだ。
母の回復に伴い、その役目を終えるはずだったシステムは、新たな理論を組み込むことで劇的な進化を遂げていた。
MISO-AIは、病院のシステムと連携し、母の最新の生体データ(内的要因)を自動で取り込む。そこに、気象条件という環境データ(外的要因)を組み合わせることで、その日の母の体調と味覚を完璧に予測する。
もはや「制限」のための計算ではなく、「最高に美味しく、かつ健康的な一杯」を創り出すための、究極の最適化エンジンを目指した。
樹がまず改良したのは、味覚最適化のための基本アルゴリズムだ。
const calcAdjustment = (p, h, t, bio) => {
const tasteCorrection = calculate_taste_correction (p, h, t, bio);
const baseRecipe = generate_base_recipe (bio);
const finalRecipe = apply_correction_and_optimize (baseRecipe, tasteCorrection);
return finalRecipe;
};
これは、気圧(p)、湿度(h)、気温(t)といった環境データと、個人の生体データ(bio)を入力すると、味覚補正、栄養バランス、個人の制限といった多角的な要素を統合し、機械学習モデルが最適なレシピを自動計算する関数だ。
しかし、これだけでは不十分だった。複数の条件が重なった時の相互作用を考慮する必要がある。そこで機械学習の出番だ。膨大な過去の「味噌汁ノート」のデータと気象データをAIに学習させ、最適な補正係数を導き出させる。
(プログラマーの論理性と、気象予報士の環境理解……そして、人間の生理機能への深い洞察。この三つが融合して初めて、完璧な味噌汁が作れる)
気象データの取得モジュール、個人の生体データ解析モジュール、味覚変化の予測アルゴリズム、最適レシピの生成エンジン。樹は持てる知識を総動員して、システムを構築していった。
気象庁のオープンデータを自動取得し、72時間先までの気象を独自に予測。なぜか味噌汁に関係する湿度と気圧の予測精度だけは、気象庁の数値予報を上回ることもあった。味噌汁に特化した機械学習の成果である。
画面には、味噌汁のための情報が整然と表示される。
左端には、現在の気象条件(気圧、湿度、気温)と、個人の最新生体データ(血圧、心拍、気分指数)がリアルタイムで更新されていく。
そして中央には、それらを統合解析した結果導き出される、その日の最適な味噌汁レシピ。推奨される味噌の量、出汁の濃度と構成、具材の組み合わせと下処理、最適な加熱時間、そして香りのプロファイルに至るまで、細部にわたる指示が示されている。
次回「§0.4 神の味噌汁(2/2)」
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