§0.3 家族の闘病記(1/3)
樹の母・恵子の病気――
【ファブリー病】
――α-ガラクトシダーゼAという酵素が欠損し、体内に糖脂質が蓄積していく遺伝性の難病。手足の激しい痛み、そして腎臓と心臓は徐々に機能を失っていく。
樹が5歳の時に診断されたその病は、年々進行していった。
中でも彼女を苦しめたのが、発汗障害だった。汗をかけない体は常に熱がこもり、脱水のリスクと隣り合わせにある。
かといって、腎機能の低下により、水分や塩分・カリウム・タンパク質等の摂取には厳しい制限があった。
栄養は必要だが、多くは摂れない。水分は必要だが、排泄が追い付かない。
生きるために必要なものが、同時に体を蝕む毒にもなり得るという、あまりに残酷なジレンマ。
それはまるで、細い糸の上を歩くような、ギリギリのバランスを強いられる日々だった。
***
樹、8歳の冬。
母はいつものように、病がもたらす激しい痛みで震えていた。
毎日父は朝早くから食事や母の薬を準備し、仕事に向かう。
IT企業の重要なプロジェクトを抱えながらも、可能な限り早く帰宅し、母の看病と家事をこなしていたが、その日は帰宅が遅くなると連絡があった。
「お母さん、僕がごはん作るよ」
樹は小さな手で懸命に出汁を取り、味噌を溶いた。何度も味見をして、ようやく完成した味噌汁。不格好な握り飯と一緒に、母のベッドまで運んだ。
「樹のお味噌汁、世界一美味しいよ、ありがとう」
痛みに顔を歪めながらも、母は全部飲み干してくれた。
帰宅した父は、息子が作った食事の跡を見て目を細め、幼い樹を抱き寄せ小さな声で言った。
「樹、ありがとう。お母さんの分も、お父さんの分も頑張ってくれて……ありがとう」
父の腕の中、樹は誇らしさで胸がいっぱいになった。しかし、父はしばらく沈黙した後、言い辛そうに言葉を続けた。
「でもな、お母さんの病気は腎臓に負担がかかるから、味噌汁は本当はあまり良くないんだ……」
父の言葉に、樹の体から血の気が引いた。
自分が善意でやったことが、かえって母の体を苦しめていたかもしれない。その事実は、8歳の少年にとってあまりに大きなショックだった。
樹が初めて『腎臓病食』という言葉を知ったのは、この時だった。
後日、母の定期診察に付き添った父が、何気ない会話の中で医師にそのことを漏らした。
「――そうですか、息子さんが味噌汁を」
ほほえましい光景を思い浮かべながらも、担当医は少し考え込み、
「確かに、本来ならば推奨できません。ですが――」
と前置きしてから、ある可能性を口にした。
「奥様の症状、発汗障害と水分制限という矛盾する課題に対してなら、汁物で栄養と水分をとるのは、案外有効かもしれませんね」
担当医の言葉を受け、栄養士も真剣な表情で言葉を継いだ。
「もちろんそれには厳しい条件があります。塩分、カリウム、タンパク質、そして水分量。これらを徹底的に計算し、一日分の摂取量を厳密に管理すること。それができれば、奥様にとっての『食べる点滴』になり得ます」
そして何より、と栄養士は微笑んだ。
「温かい食事は、生きる気力を支えます。点滴では得られない『美味しさ』と『温もり』が、奥様の心を救うはずです」
その言葉に、父は迷わず頷いた。計算がどれほど過酷でも、妻の笑顔が見られるなら安いものだ、と。
こうして、担当医と栄養士、そして樹と父がたどり着いた最適解――それが、「特製の味噌汁」だった。
それは、母の生命を維持するための、オーダーメイドの完全栄養食。
8歳の樹にとって、それは単なる料理ではなかった。母の命を支える「薬」を、自分の手で調合する、極めて高度なメディカル・エンジニアリングの始まりだった。
その時より樹のノートには、具材・薬味・母の体調などが記載され、出汁の秒単位の抽出時間や0.1g単位の食材重量のような細かな調理の情報までもが徐々に追加され、子供の拙い字でびっしりと記録されていった。
しかし、彼はすぐに次の壁にぶつかる。
制限が多い食事だからこそ、せめて「美味しい」と感じてほしい。だが、その味の「ブレ」の原因がどうしても掴めない。
完璧に同じレシピで作っているはずなのに、母の「美味しい」という評価が、なぜか安定しないのだ。
だがその味覚に対する謎の究明は、一旦保留されることになる。
樹の生活のすべては母の病そのものを治療するための研究へと注がれていったからだ。
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