§0.2 木を見て森を見ず
窓の外では、梅雨特有の重い雲が垂れ込めていた。さっきまで降っていた雨は止んだが、湿気を含んだ空気が研究室にも漂っている。
(そういえば、あの二日酔いの朝……)
帰国後初めての誕生日。
20歳の祝いという事もあり両親と祝杯をあげ、父の勧める日本酒を飲みすぎ、人生初の本格的な二日酔いを経験した。
その翌朝、母が作ってくれた味噌汁の美味しさは格別だった。
「他の人が作ってくれた味噌汁は、愛情という隠し味が入ってるから」
母のその言葉を思い出しながら、樹は苦笑した。
(愛情も数値化できればなあ……)
そんなことを思いながら机の上のノートのページを何気なくめくる。
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6月15日(月)はれ ぐ:もやしとナス やくみ:すりおろしショウガ、しちみ ぐあい:いたみ少ない、食よくある 評価:◎ 感想:今日のは特に美味しいね、体が温まるよ
6月16日(火)くもり ぐ:キャベツと玉ねぎ やくみ:おろしにんにく ぐあい:少しだるい、食よくふつう 評価:○ 感想:ありがとう、ホッとする
6月17日(水)雨 ぐ:もやしとナス やくみ:きざみおおば ぐあい:足強いいたみ、食よくあまりない 評価:△ 感想:ありがとう、でも少し味が薄く感じるかな?
6月18日(木)雨 ぐ:ていタンパクおふと玉ねぎ やくみ:きざみみねぎ ぐあい:頭いたい、食よくもあまりない 評価:× 感想:ごめんね、今日はちょっと……
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日記も兼ねていたそのノートを見返すと、あの頃を思い出す。
子供らしい字の最後の部分は、毎日感想を書いてくれた母の直筆。
具材を細かく刻んで茹でこぼしたり、香り付けとして薬味を色々試したことを懐かしく思い出す。
(むかしから僕も几帳面だな。天気まで書いて……ん?)
ふいにあることに気づき、子供の頃の記録と過去から現在に続く膨大なデータと照合していく。
「……何で気付かなかったのか……そういう事じゃないか」
点と点が、ようやく一本の線で繋がった。
母の体調と、天気。そして、味覚。長年解けなかった謎の答えは、自分が無意識に記録し続けてきたデータの中にあった。
樹はすぐさま図書館へ走り、気象学と人間工学の専門書を読み漁った。
気圧の変化と頭痛、寒い日は古傷が痛むなど、気象と体調の関連性は一般的にも有名な話である。
これまで彼は、母の体調変化をすべて「ファブリー病の病理メカニズム」というミクロな視点だけで解釈しようとしていた。遺伝子、酵素、細胞……、そのあまりに複雑で強大な敵と戦うあまり、「気象」というマクロな環境要因が人間の生理機能に与える影響を、無意識の内に「誤差」として切り捨てていたのだ。
だが、治療によって病状が安定し、激しい痛みのノイズが取り払われた現在の母のバイタルデータからも隠れていた相関関係が浮き彫りになっていた。
――気圧の低下は、痛みを感じやすくさせ、交感神経を刺激することで体調を変動させる
――その体調の変化が、味覚や嗅覚の閾値をさらに複雑に変動させる
――高湿度は、嗅覚の感度を鈍らせ、風味の認知を直接的に阻害する
「Can’t see the forest for the trees... (木を見て森を見ず)、まさにこのことだ」
この発見は、樹を新たな探求へと駆り立てた。
一般的な天気予報では精度が足りない。母の味噌汁のためだけに、より高精度な局地気象予測が必要だ。
梅雨が明ける頃には、樹は気象学に没頭していた。
大気の状態方程式、温度風の関係、渦度方程式。数式の形は違えど、複雑な相互作用を記述するという点では、遺伝子ネットワークの解析と似ていた。カオス理論は両方の分野で重要だ。
ただし気象の方が圧倒的に難しい。遺伝子なら実験で検証できるが、大気は一度きりの現象。それでも樹は、パターン認識の手法なら応用できると考えた。
研究室のホワイトボードは、いつしか天気図と数式で埋め尽くされていた。訪ねてきた教授は、バイオインフォマティクスの研究室とは思えない光景に首を傾げたが、樹は「ちょっとした趣味です」とだけ答えた。
なぜ、世界的な天才研究者と呼ばれる彼が、たかが味噌汁のためにここまでするのか。
その理由は、彼が歩んできた壮絶な家族の物語にあった。
次回「§0.3 家族の闘病記(1/3)」
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