前日譚 「神のみぞ知る」/§0.1 若き探究者
梅雨特有の湿った空気が、研究棟の窓ガラスを曇らせていた。
水瀬樹、20歳の初夏。
外では断続的に雨が降り、エアコンの除湿運転の低い音と、時折聞こえる雨音だけが静かな研究室に響いている。
研究室の中で、樹は深刻な顔でモニターを睨んでいた。画面には膨大なデータと複雑なグラフが表示されている。
訪ねてきた先輩研究者が画面を覗き込もうとすると、樹は慌ててウィンドウを最小化した。
「どうした、難しい顔して。新しい研究?」
大学から研究スペースを与えられている樹の様子を見に来た先輩研究者が、興味深そうに尋ねた。
「ちょっとした個人的なプロジェクトです」
樹は曖昧に答えながら、別の無関係なウィンドウを開いた。
「そうか、また難しい問題に取り組んでるんだな」
彼は何かに納得したように頷く。
若き天才の「個人的なプロジェクト」だ。きっと世界を変えるような革新的な何かに違いない――そう思っていた。
「まあ、人類にとって重要な問題です」
樹の真剣な表情に先輩研究者は、さすが天才は違うと感心しながら去っていった。
樹は再びモニターに向き合った。
画面に並ぶのは、膨大な数値の羅列と、不可解な挙動を示すグラフ。
完璧に制御された数千のパラメーター。それなのに、出力結果には無視できない「ゆらぎ」が混ざり続けている。
計算は合っている、理論上は完璧なはずだ。なのに再現性が乏しく、原因となる未知の何かがまだどこかに潜んでいるように思えた。
これは由々しき問題だった。
帰国して数ヶ月。特任准教授への内定も決まり、来年度からの本格的な研究室立ち上げに向けて準備を進めている、そんな時期のことだった。
MITへの残留や各国のオファーを蹴ってこの大学を選んだのは、日本に帰国したいという願いに加え、ここが医療機器と計算設備の両面で理想的な環境だったからだ。
それにしても、大学側が提示してくれた破格ともいえる高待遇にはいささか恐縮してしまったものだが……
ともあれ、研究環境も整い、ようやく自分の時間が持てるようになった樹は、ある「問題」に直面していた。
彼の探求の原点は、研究室の机に置かれた一冊の使い古したノートにあった。
表紙には子供の字で
『ぼくの味噌汁レシピ』
それは、8歳の時から彼が書き続けてきた、母のための、世界でたった一つの「治療薬」の開発記録だった。
母の病状が劇的に改善した今、その役割は「命を繋ぐ薬」から「人生を彩る食事」へと変わっていた。制限は減り、使える食材も増えた。栄養学的にも化学的にも今のレシピは完璧なはずだった。
それなのに、あと一歩、何かが足りない。
今も昔も日によって母の「美味しい」という評価が微妙に揺らぐのだ。その原因不明の「ブレ」こそが、今の彼を悩ませている最大の難問だった。
次回「§0.2 木を見て森を見ず」
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