§6.3 心からの叫び
結衣は俯いたまま、膝の上で手を握りしめていた。
「結衣さん」
樹が優しく声をかけると、結衣はゆっくりと顔を上げた。
「あの……私こそ、ごめんなさい。准教授の方に、失礼なことばかりして……」
結衣はまた身分の違いを口にした。
「そんなことは関係ないよ」
樹は少し強めに、でも優しく言った。洋子がいなくなって、いつもの口調に戻っている。
「でも……准教授と学生では……私みたいな者が、先生にご迷惑を……」
結衣はまた「准教授」「先生」という言葉を使った。
樹の表情が、少し曇った。
「結衣さん、准教授とか関係なく……」
「でも、やっぱり准教授の方は……」
「……」
樹は黙り込んだ。
「私なんて、ただの医学部の学生で、頭も良くないし……准教授の先生みたいな天才とは違って……」
膝の上で、樹の拳が握りしめられた。
「それに、准教授の先生は世界的に有名で、私なんかが話しかけるのも本当は失礼で……」
樹の表情が、険しくなっていく。
「私みたいな平凡な学生が、准教授の先生のお時間をいただくなんて、本当に申し訳なくて……」
沈黙。
そして、決定打となる一言を結衣が口にした。
「やっぱり准教授の先生には、私なんかじゃなくて、頭の良い研究者の方とか、優秀な院生の方とか、もっと立派な方と一緒にいていただきたいです」
ブチッ!
「あー! もう、めんどうくせえ!!」
樹が、ついに感情を爆発させた。突然の怒声に、結衣はびくりと肩を震わせ、ただ驚いて彼を見つめることしかできない。
樹は少し息を切らして、それから深呼吸をした。
「わかった、もう一回自己紹介からしよう。仕切り直しだ」
樹はそう言って、結衣の前に座り直した。
「改めて。僕は水瀬樹、22歳、特任准教授。バイオインフォマティクス専攻。あと、気象予報士の資格も持ってる」
結衣は目を丸くした。
(気象予報士……? なんで……?)
心の中で疑問が湧いたが、樹は続けた。
「よろしく、桜庭結衣さん」
結衣は、樹の急変に目を丸くしていた。
「えっと……」
「そりゃ、名乗ってなかったけど知ってると思ってたよ。なんかたまに、この子変なこと聞いてくるなーとは思ってたけど」
樹は少し苦笑いしながら言った。
「でも僕もあの時まで結衣さんの名前知らなかったわけだし……よく会うし、なんでも教えてくれるし、こんな立場だけど、この大学で一番気楽に話しができたのって結衣さんなんだよ。まあ、今その理由も分かったけど」
樹は少し照れたように笑った。
「結衣さんだってそう思ってたんじゃない? この人、学部違うのに色々聞いてくるし、大学の何処にいてもよく会うし、とか。今になると、色々辻褄が合うんじゃない?」
結衣は、樹の言葉に小さく頷いた。確かに、今思えば不思議なことがたくさんあった。
「はい……本当に」
「そうやって、君と普通に話せるのが一番いいんだ」
樹の表情が、少し寂しそうになった。
「15歳からずっと、同世代の友達なんていなかったからさ」
その一言に、結衣は胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
「樹さん……」
「だから君といると、すごく……普通でいられるんだよ」
樹は結衣の目をまっすぐに見つめた。
「君は僕を、ただの樹として見てくれた。准教授でも天才でもない、普通の22歳として」
結衣は、樹の真剣な眼差しに心臓が早鐘を打った。
「それが……どれだけ嬉しかったか」
次回「§6.4 告白」
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