§6.2 繋ぎ手
「なるほど……それは確かに驚きますね」
(でも、ちょっと待てよ……)
樹の頭の中で、これまでの出来事が駆け巡った。
(結衣さんが普通に話しかけてくれてたのは、僕を准教授だと知らなかったからか……それで、レポートの質問とか、あんなに気軽に……)
樹の表情から、みるみる冷静さが失われていく。彼は慌てたように立ち上がった。
「あの……そうすると、僕と話してくれてたのは……」
どこかそわそわした様子で、冷蔵庫の方へ向かった。
「あ、お茶でも淹れますね。ちょっと……整理させてください」
そう言って冷蔵庫の方に向かうが、足取りがややふらついている。結衣は、あの夜と同じように樹がお茶を淹れてくれる姿を見て、少し懐かしい気持ちになったが、今度は樹の方が動揺しているのが分かった。
「ありがとうございます」
洋子が礼儀正しく答える一方で、結衣は黙ったまま手を膝の上で握りしめていた。
お茶を淹れながら、樹の頭の中は混乱していた。
(結衣さんとの関係って、全部勘違いの上に成り立ってたのか……)
(あの時、研究協力を頼んだ時も、僕のことを学生だと思ってたから引き受けてくれたのかもしれない)
カップを持つ手が少し震えているのに気づき、樹は深呼吸をした。
「はい、どうぞ」
樹はお茶を二人に差し出したが、まだ少し動揺が隠せない様子だった。
そこで洋子は、少し表情を変えた。
「あの、先生……実はもう一つお聞きしたいことが」
「はい、何でしょう?」
「もしよろしければ……サインいただけませんか?」
そう言って洋子は教科書を取り出した。突然のミーハーな変貌に、結衣は驚いて洋子を見つめた。
「僕のサインなんて何の価値もないですよ」
樹は苦笑いしながらも、ペンを受け取った。
流れるような筆記体で「Itsuki Minase」と署名して、洋子に教科書を返した。
「ありがとうございます!」
洋子は宝物を受け取るように教科書を受け取り、サインを嬉しそうに眺めている。
結衣はその様子を見て、改めて現実を突きつけられたような気持ちになった。
(洋子が、あんなに嬉しそうにサインをもらってる……)
普段はそんなことに興味を示さない洋子が、こんなに喜んでいる。それだけ樹が本当にすごい人なのだということを、改めて実感させられた。
(やっぱり、私なんて……)
結衣の表情が、少し暗くなる。
その様子を見て、樹は少し微笑んでから、改めて結衣の方を向いた。
「結衣さん」
樹の優しい声に、結衣は顔を上げた。
「僕の方こそ、ごめんなさい。准教授だって最初に言うべきでした」
「いえ……そんな……」
結衣は首を振った。
「でも、結衣さんが普通に話しかけてくれたから、僕はとても嬉しかったんです」
樹の言葉に、結衣は驚いて目を見開いた。
「この大学で、僕と普通に話してくれる人って、実はあまりいないんです」
樹は少し寂しそうに微笑んだ。
「みんな『准教授』として接してくるから。でも結衣さんは違った」
洋子は、二人の雰囲気が変わってきたのを察して、そっと立ち上がった。
「先生、結衣のこと……よろしくお願いします」
そう言って深く頭を下げると、樹に向かって小さく微笑んだ。
「はい、分かっています」
洋子は安心したような表情を見せ、結衣に向き直った。
「じゃあ結衣、私はもう帰るね。後は……ちゃんと話しなさい」
「洋子……ありがとう」
結衣は涙ぐみながら、親友に感謝の言葉を伝えた。
洋子が研究室を出て行くと、残された二人の間に静寂が流れた。
次回「§6.3 心からの叫び」
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