第6章 ただ、君のとなりで/§6.1 対峙の時
研究室に籠ること数時間。夕方も過ぎ、金曜日の夜ということもあり、研究棟は静まり返っていた。
研究室の内線電話が鳴る。
「もしもし、水瀬です」
「先生、1階の守衛です。医学部の田貫という学生さんがお見えになっているのですが、お通ししてよろしいでしょうか」
研究棟は日中は学生も自由に出入りできるが、夜間は正面入り口が施錠されており、入館には守衛への申告が必要となっている。
田貫? 聞き覚えのない名前だが、もしかして昼間の……
(あの美人の子か? 結衣さんの友達なら、何か事情が分かるかもしれない)
「はい、大丈夫です。お通しください」
「かしこまりました。田貫さん、水瀬先生がお通しするとのことです。エレベーターで3階へどうぞ」
電子ロックが解除される音がして、重いガラス扉が開く。
しばらくして研究室の扉横のインターホンが鳴る。
「水瀬先生、田貫です」
扉を開けると、そこに立っていたのは、昼間にキャンパスで自分を睨みつけてきたあの長身の美女だった。そして、その隣には――俯いた結衣の姿があった。
「結衣さん……!」
樹の表情が、驚きから安堵に変わった。
「申し訳ございませんでした、先ほどは失礼いたしました」
洋子は深く頭を下げた。近くで見ると、本当に芸能人のような美貌だった。
「医学部2年の田貫洋子と申します。結衣の友人です」
(ああ、この人が結衣さんがよく話してた洋子さんか。「サバサバしてて面倒見がいい」って言ってたけど、昼間の剣幕を見る限り確かにそうかも……)
「あ、そうだったんですね」
樹は納得したような表情を見せた。
「実は、結衣のことでお話があります。お時間いただけますでしょうか?」
「ええ、もちろん。どうぞ、中に入ってください」
樹は扉を大きく開けて、二人を研究室に招き入れた。
研究室に入ると、結衣は懐かしい空間に少し緊張した。あの夜、樹が味噌汁を作ってくれたテーブルや、自分が着替えたスウェットが置いてあるクローゼットが見える。
「どうぞ、座ってください」
樹は二人にソファを勧めた。洋子は遠慮なく座ったが、結衣は恥ずかしそうに端の方に座った。
「まず、本当に申し訳ありませんでした」
洋子は改めて深く頭を下げた。
「昼間は、先生が学生のふりをして結衣に近づいた悪い人だと完全に誤解していました。結衣から詳しく話を聞いて、全て私の思い込みだったと分かりました。大変失礼なことを言ってしまい、本当に申し訳ございません」
「いえ、大丈夫です。でも……学生のふりって、どういう……?」
樹は困惑した表情を見せた。
「実は、結衣は先生が准教授だということを、今日まで知らなかったんです」
洋子の言葉に、樹は一瞬、何を言われているのか理解できないという顔になった。
「え?」
「結衣、先生のことをずっと樹という苗字の理工学部の学生だと思ってたんです」
洋子の説明に、樹は目を丸くして結衣の方を見た。結衣は顔を真っ赤にして俯いている。
「え? えー!?」
樹は結衣を見つめながら、これまでの出来事を振り返った。
(苗字……結衣さんもあの時の僕と同じ勘違いしていて、それで学生だと……)
「結衣さん、本当に知らなかったんですか?」
結衣は顔を真っ赤にして、小さく頷いた。
「はい……ごめんなさい……」
「いや、謝ることじゃないですよ。僕の方こそ、ちゃんと名乗るべきでした」
樹は苦笑いした。
「でも、それで今日逃げ出したのは……」
「びっくりしちゃったんです。少し年上の先輩だと思ってた人が、突然准教授だって知って」
洋子が代わりに説明した。
「しかも、ただの准教授じゃなくて、世界的に有名な天才研究者だったなんて。結衣、完全にパニックになっちゃって」
洋子は少し声を落として続けた。
「それで、これまでのことを思い出して……研究協力で恥ずかしいことを答えたり、お酒飲んで研究室に泊まったり……全部そんなすごい人相手にしてたことだったなんて」
(結衣から詳しくは聞けなかったけど、相当恥ずかしいことがあったみたい……)
樹は理解したように頷いたが、少し困ったような表情も見せた。
次回「§6.2 繋ぎ手」
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