§5.3 崩れる世界
(これ……金曜日に見た人に似てる……いや、遠目だったから確信は持てないけど)
「この先生、どんな研究してるの?」
「たしか……そうそう、洋子がさっき言ってたバイオインフォマティクスだ。AIとか医療系の研究で有名だよ」
洋子の表情がみるみる硬くなる。点と点が、一本の線で繋がり始めた。
***
「もしもし、結衣? 今どこ?」
洋子は急いで結衣に電話をかけた。
「図書館にいるけど……どうしたの?」
「今すぐ会いたい。カフェで待ってる」
***
30分後、カフェで洋子と結衣は向かい合って座っていた。
「結衣、樹くんのフルネームって本当に知らないの?」
「うん、苗字しか知らないけど……」
洋子は深呼吸をしてから切り出した。
「理工学部で樹って人、誰も知らないし……存在しないのよ」
「え?」
困惑する結衣に、洋子が続ける。
「でも、名前が樹なら一人だけ該当する人がいて……」
洋子はスマホの画面を結衣に向けた。
「水瀬樹特任准教授。22歳の天才研究者」
結衣は画面に映った写真を見つめた。間違いない、樹くんだ。
「じゅん……きょうじゅ……?」
結衣の声が震えた。
「そう! 水瀬樹特任准教授! 一般の学生はあまり知らないかもしれないけど、学術界での超有名人!」
洋子はスマホで検索しながら興奮気味に説明を続けた。
「ちょっと待って……Wikipediaによると……えっ! 15歳で革新的な論文発表、MITで19歳で博士号!?」
画面をスクロールしながら目を丸くする。
「やばい、想像以上だ……『世界中の研究機関が争奪戦』『破格の条件で日本に帰国』とか書いてある! うちの大学、こんなすごい人を招聘してたの!?」
結衣の頭がくらくらした。そういえば……
(水瀬研究室……あのプレート見た時、なんか聞いたことある名前だと思った……)
去年、医学部の掲示板で「世界的に有名な若手研究者が着任」というニュースを見た記憶が蘇る。友達と「へー、すごい人が来たんだね」って話したような……でもその時は、まさか自分と関わるなんて思ってもいなかった。
(それが樹くん……准教授……天才研究者?)
「ちょっと待って……私、ずっと学生だと思ってた……」
「は? 何で准教授を学生だと思うわけ? それより、本当にこの人が結衣の言ってた樹くんなの!?」
今まで感じていた小さな違和感が、結衣の頭の中でパズルのピースのように繋がっていく。
(あの充実した設備も……)
(青いインターフェースのAI学習アシスタントの開発も……)
(医学の知識が詳しかったのも……)
(それだけじゃない、色々なこと何でも知ってる……)
(バーでマスターと流暢に英語で話してたことも……)
(企業との共同研究も、学生じゃなくて准教授としての……)
(いつも大学内を自由に動き回ってたのも……)
(MITがどうとか言ってた……)
一つ一つのピースが、カチリ、カチリと音を立てて嵌まっていく。
「結衣? 大丈夫? 顔真っ青よ」
洋子の声が遠くに聞こえる。
(私、准教授に……あんなことを……)
あの夜の出来事が脳裏によみがえる。酔っ払って失態を晒した自分。下着を濡らして、樹に介抱されたこと。
(しかも、研究協力で……あんな恥ずかしいことを……)
性的な内容を赤面しながら説明していた自分。それを聞いていたのは、学生ではなく准教授だった。
(私、何してたんだろう……)
結衣の顔から、すっと血の気が引いていく。
「結衣、本当に大丈夫?」
「私……帰る」
結衣は立ち上がった。
「ちょっと結衣!」
次回「§5.4 混乱の再会」
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