§4.9 温かい記憶
デートの翌日、土曜日の夕方。自室に戻った結衣はベッドに横になりながら今日の出来事を振り返っていた。あの夜の恥ずかしい失態から始まって、樹の優しい介抱、そして温かい味噌汁まで。
(樹くん、本当に優しい人だな……)
心は温かい気持ちでいっぱいだったが、同時に小さな違和感も感じていた。
(そういえば……)
バーでの樹の様子を思い出す。マスターと自然に英語で会話していたあの姿。あんなに流暢に英語を話せるものなのだろうか。
(アードベッグ……なんとかって言ってたな)
私の知らないお酒をよく知ってるな、と思った。マスターの扱い方も、なんだか特別な感じがした。
それに、お会計も樹くんが全部払ってくれたけど、あのお店結構高かったんじゃないだろうか。居酒屋からバーまで、学生が気軽に出せる金額だったのかな。
(でも、企業との共同研究で報酬もらってるって言ってたし……)
結衣は自分の心配を打ち消すように考えた。きっと研究で稼いでいるのだろう。
そして、今日過ごした研究室のことも思い出していた。
(あの研究室、すごく充実してたな……)
シャワーやトイレが完備されていて、まるで一人の研究者が使う個人の部屋のようだった。
それに、コンピューターや機材も最新のものが揃っていた気がする。
(指導教授の先生、すごく予算を持ってる方なのかな)
でも、学生がそんな立派な環境で研究できるなんて、羨ましい話だった。
(あと、樹くんが言ってた企業との共同研究って……)
思い返してみると、樹はバーでも「共同研究の打ち合わせの後によく来る」と言っていた。学生でも企業の人と会うことはあるだろうけど、なんだか慣れた感じだった。
(そうだ、樹くんっていつも天気の話をする時、妙に自信満々なんだよね……)
「西から低気圧が」とか「明後日には回復する」とか、理系の人って天気図とか読めるものなのかな?
それにしても、樹はいつも色々な場所にいる。図書館、学食、研究棟……まるで大学全体を自由に動き回っているような感じだった。
(理工学部の学生なのに、医学部の方にもよく来てるし……)
結衣は小さな疑問を抱きながらも、それ以上深く考えることはなかった。
でも、なんとなく心がざわついていた。あの夜のことは恥ずかしかったが、樹への気持ちが変わったのも確かだった。彼の優しさに触れて、今まで感じたことのない感情が芽生えている。
だからこそ、彼のことをもっと知りたいと思った。
ベッドに横になり、今度はもっとゆっくりとあの夜のことを思い返してみる。恥ずかしい失態の記憶もあったが、それ以上に樹の優しさが心に残っていた。
(樹くんの手が、頭を撫でてくれた時……)
あの時の温かさを思い出すと、胸がキュンとした。
(それに、タクシーの中で樹くんの肩に頭を預けた時も……)
断片的だが、樹の腕に支えられていた記憶が蘇る。あの安心感は、今思い出しても心地よかった。
(そういえば……おんぶしてもらったような……)
朧げな記憶の中で、樹の背中の温もりと、首筋から香る優しい匂いを思い出す。自分が「いい匂い」って言った気がする。恥ずかしい。
(足の絆創膏も……いつの間にか貼ってくれてた)
靴擦れで赤くなっていた場所に、丁寧に絆創膏が貼られていた。寝ている間にそっと手当してくれたんだ。
でも、そこから先の記憶は途切れ途切れだった。研究室で目が覚めた時の混乱や、樹の困った様子も思い出す。
(あの時の樹くん、本当に慌ててたな……)
結衣は少しくすりと笑った。普段は落ち着いている樹が、あんなに動揺している姿は新鮮だった。
(でも、最後まで私のことを気遣ってくれて……)
味噌汁を作ってくれたことや、優しく頭を撫でてくれたこと。全部が、結衣にとって特別な思い出になっていた。
(明日、樹くんに会ったら何て話そう……)
そう思った時、ふと別の記憶が蘇った。
次回「§4.10 残された余韻」
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