§4.7 安堵
結衣はそう言って、樹に心からの笑顔を見せた。
「二日酔いの時のお味噌汁は格別だからね。さらに結衣さんにとってはもっと美味しいと思える要素があるんだよ。わかる?」
樹の言葉に、結衣は首をかしげた。
「え……?」
(二日酔いのときに味噌汁が美味しいのはわかるけど、それ以外に何かあるのかな……?)
樹の真剣な表情を見て、結衣は少し考えた。
「もしかして……樹くんが作ってくれたから……とか……?」
そう言って、結衣は少し恥ずかしそうに樹を見つめた。
「まぁ、僕がっていうより、他人が作ってくれたってとこだね。僕も初めての二日酔いの時は感動したから」
樹の言葉に、結衣の心はざわついた。
(誰だ!? 樹くんに味噌汁を作ったのは……昔の彼女とか!?)
「……だれ?」
平静を装いながらも、心中穏やかではいられない結衣は無意識に疑問を口に出していた。
「えっ? お母さんね」
樹の言葉に、結衣は心底ホッとしたように息をついた。
「……っ、お母さん……って、いま私、声に出てたの!?」
そう言って、結衣は恥ずかしさで顔を真っ赤にし、自分の勘違いに苦笑した。
「そっか……お母さんか……。わたし、てっきり……。あれ、樹くんのお母さんって病気はもう大丈夫なの?」
以前、樹が母が難病であると言っていたことを思い出した。
「うん、今は治療がうまくいっててね、数年前から症状はかなり改善してるんだ。そう、その母さんが『お味噌汁』って言い方するから、僕もうつっちゃって」
樹は少し照れくさそうに続けた。
「あと、お味噌汁を美味しくする秘訣は他にもあってね。今日みたいに湿度が高い日は、少し濃いめの味付けの方が美味しく感じるんだ」
でも結衣は安堵感でいっぱいで、樹の説明をあまり聞いていなかった。
「へー、そうなんだ……」
結衣はそれ以上何も言えず、味噌汁を一口飲んだ。口の中に広がる温かさと、安堵の気持ちで、胸がいっぱいになった。
安堵の気持ちと同時に、結衣は自分の勘違いが恥ずかしくなってきた。
「ふふっ……ごめん……」
そう言って、結衣は恥ずかしそうに顔を赤くする。
「わたし……てっきり、昔の彼女が作ってくれたのかなって……」
結衣は、正直な自分の気持ちを口にして、またさらに顔を赤くする。
「でも、樹くんがお母さんだって言ってくれて……。なんだか、すごくホッとした」
そう言って、結衣はにこりと微笑んだ。
樹は、結衣の言葉に少し照れたように頭をかいた。
「彼女がいた経験があったら、女性に無神経にあんな質問しないって」
樹はそう言って、結衣の目をまっすぐに見つめた。
「それに、恋愛経験があったら、昨日みたいに慌てたりしないよ。あんなこともこんなことも、普通に対処できたはず」
そう言って、樹は少し言葉を濁した。
樹の言葉に、結衣はふっと微笑んだ。
「あんなこと……こんなこと……」
結衣はそう言って、少し思わせぶりな口調で言葉を繰り返すと、樹の顔をじっと見つめた。
「あの樹くん。先日わたしには『わかりやすい言葉』でって言ったのに、『あんなこと』って具体的にはどういうこと?」
結衣はそう言って、少しだけ意地悪な笑顔を見せた。
樹は、結衣の思わぬ反撃に慌てた。
「え、あー、その……」
結衣の少し意地悪な笑顔を見て、完全に形勢逆転されたことを悟る。
(ああ、これは完全に楽しんでる……!)
樹は、結衣の少し意地悪な笑顔と、その後に続いた笑い声に、張りつめていた緊張の糸がプツンと切れるのを感じた。
「……よかった」
彼はそう言って、心底ホッとしたように安堵の息を吐く。
「結衣さん……笑ってくれて、よかった……」
そう言って、樹もつられて笑った。
結衣の笑顔を見て安心し、再び言葉を続けた。
「まあ、大学生だからこんなこともあるよ。結衣さんも大勢に迷惑かけたわけじゃないし、僕もそこまでの迷惑かけられたわけじゃないから」
そう言って、樹は少し真面目な顔になった。
「むしろ、こんな状況では疑われてもおかしくなかったのに、結衣さんは僕のことを疑わなかった。ありがとう」
樹の真剣な眼差しに、結衣は静かに頷いた。
「……私、樹くんのこと、信じてたから……」
そう言って、結衣は少し照れたように微笑んだ。
樹は、結衣の言葉に安堵し、そして、心から嬉しくなった。
「……ありがとう」
彼はそう言って、優しく結衣に微笑み返した。
二人は、温かい味噌汁を飲み干し、静かに食事を終えた。お互いお礼を言い合って、気まずかった朝の空気は、すっかり和やかなものに変わっていた。
***
味噌汁を飲み終えて、少し落ち着いた頃、結衣は何か言いたそうにモジモジしていた。
「あの……樹くん……」
「ん?」
「昨日の……その……」
顔を真っ赤にしながら、消え入りそうな声で結衣が続ける。
「おしっ……小の方……だけ、だったよね……?」
樹は一瞬きょとんとしたが、すぐに理解して顔を赤らめた。
「あ、う、うん……それだけ。大丈夫、心配しなくていいよ」
樹も目を合わせられず、慌てて付け加えた。
「僕もその……介抱するときはちゃんと目は瞑ってたし……必要最低限しか……見てない……から……」
二人とも顔を真っ赤にして、気まずい空気が流れた。
樹は咳払いをしてから、わざと悪戯っぽく笑った。
「まあ、目撃者は僕だけだから、ここで僕の息の根止めちゃえば真実は闇の中だよ」
「怖っ!」
結衣も緊張がほぐれて笑ってしまった。
「もう、物騒なこと言わないでよ」
「冗談だよ。でも、誰にも言わないから安心して」
「うん……ありがとう」
二人の間に流れていた気まずさが、笑いと共に消えていった。
次回「§4.8 帰宅の準備」
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