§3.6 地下の隠れ家
その提案に、結衣は少し驚いた表情を見せた。
「バー? 樹くん、そういうところ行くの?」
「たまにね。ノンアルコールカクテルも色々あるよ」
「でも、私そういうお店入ったことなくて……」
「大丈夫、静かで落ち着いた店だから」
結衣は少し迷ったが、まだ樹と一緒にいたい気持ちの方が強かった。
「じゃあ……連れて行って」
二人は繁華街から少し離れた、落ち着いた通りを歩いていた。
「あの建物、変わった形してるね」
結衣が指差したのは、三角形の鉄骨が組み合わさった独特な外観のビルだった。
「ああ、あれはトラス構造って言って、三角形の組み合わせで強度を出してるんだ」
「へー」
「見た目より頑丈なんだよ。構造力学的には理にかなってて……」
樹は説明しかけて、途中で止めた。
「ごめん、つまらない話して」
「ううん、面白い。樹くんって本当に色んなこと知ってるね」
「たまたまだよ」
樹が案内したのは、ビルの地下にある小さなバーだった。重い木製のドアを開けると、ジャズの音楽が静かに流れている。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥で外国人のマスターが、少し訛りのある日本語で挨拶した。薄暗い照明が大人の雰囲気を醸し出している。
「カウンターでいい?」
「うん……」
結衣は少し緊張した面持ちで、樹の隣のスツールに腰掛けた。
「Master, Ardbeg Uigeadail, neat please. And she would like to see the cocktail menu.」
(マスター、アードベッグ ウーガダール、ストレートで。それと彼女にカクテルメニューを)
樹が流暢な英語で注文すると、結衣は驚いて樹を見つめた。
「Of course, Itsuki. Here's the cocktail menu for the lady.」
(もちろんだよ、イツキ。お嬢様にカクテルメニューをどうぞ)
マスターは親しみを込めた口調で答え、結衣に向き直ると日本語に切り替えた。
「こちら、カクテルメニューです」
「あ、ありがとうございます」
結衣はメニューを受け取りながら、樹に小声で話しかけた。
「樹くん、英語すごく自然に話すんだね」
「そう言ってもらえると嬉しいな。でも結衣さんも医学部なら英語できるでしょ?」
「読むのはできるけど、話すのは苦手で……」
結衣は恥ずかしそうにメニューに目を落とした。琥珀色のウイスキーが、照明を受けて美しく輝いている。
「これ、アードベッグ?」
結衣が樹のグラスを見つめた。
「うん。アイラ島のウイスキーで、ピート香が強いんだ」
「ピート香?」
「泥炭で麦芽を乾燥させるから、独特のスモーキーな香りがつくんだよ。好き嫌いが分かれるけど」
樹はグラスを軽く回しながら説明した。
「へー、詳しいんだね」
「マスターが教えてくれたんだ」
樹はそう言って、ウイスキーを一口含んだ。結衣は薄暗い照明の中、メニューの文字を読もうとしている。
「暗くて見づらいかな」
「ちょっと……カタカナばっかりで、どんな味か想像つかない」
結衣は困ったような表情でメニューを眺めていた。モヒート、マティーニ、ギムレット……
「マスターにお任せしてもいいよ。甘いのがいいとか、フルーツ系とか、リクエストすれば作ってくれる」
「そうなんだ」
「アルコールは少し入ってた方が美味しいけど、さっきのビールの件があるから無理しなくていいよ」
樹は居酒屋での失敗を思い出して付け加えた。
「じゃあ……甘くて、フルーツを使った、アルコール少しだけのをお願いしたい」
樹はマスターに向き直った。
「Could you make something sweet with fruits, just a little alcohol for her?」
(彼女に、フルーツを使った甘めで、アルコール控えめのものを作ってもらえる?)
「Sure thing. I'll make something special.」
(もちろん。特別なものを作るよ)
マスターは心得たとばかりに微笑み、シェイカーを手に取ると、手際よくカクテルを作り始めた。
しばらくすると、イチゴの赤が鮮やかなカクテルが結衣の前に置かれた。グラスの縁には薄くスライスしたイチゴが飾られている。
「わあ……きれい」
「Strawberry Daiquiri, very light. Enjoy.」
マスターが結衣に優しく説明した。
「ストロベリー・ダイキリ。アルコール、少しです」
次回「§3.7 女王の口づけ」
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