会えない時間が育てるもの1
私はそれから、今度こそ心を入れ替えて家庭教師の指導を受けることにした。
完璧な淑女にはなれなかったとしても、それでもリュシエンヌ様の姿は私には良い刺激だった。学生のとき、確かに私はあの人に負けた。でも今なら、どうして負けたのか分かる。理由は酷く単純で、努力の量と質が違ったからだ。つまりリュシエンヌ様は、努力は裏切らないと全力で体言しているのだ。
そしてそれから五か月間、私は全力で日々の特訓に取り組んだ。
「オデット様、背筋を伸ばすことに集中しすぎです。足運びが雑になっていますよ!」
「はいっ!」
淑女の振る舞いというのは、なかなか筋力と集中力が必要なものらしい。腰の辺りがぴきぴきと過度な負担を訴えている。先生の指摘に返事をして、爪先にも注意を向けた。鏡の中にいる私は、思い切り絞められたコルセットと柔らかく裾の広がったドレスの影響もあって、どこから見ても美しい王女である。
なかなか私も、様になってきたじゃない。そう思うと、どうしても口元は緩んでくる。
「そうです、よくできましたね」
厳しい先生が、指示棒を小脇に抱え機嫌よく軽く両手を打ち鳴らした。やっと褒められることができた。こんな達成感を味わうのは初めてかもしれない。私は満面の笑みを先生に向けた。
「えへへ、私だってやればでき──」
「何です、その笑い方は!」
瞬間、先生が持っていた指示棒が足下目がけて飛んできた。ばしん、と大きな音が響く。
「ひいっ」
「姿勢が崩れました。もう一度やり直しですよ」
先生は自分で投げた指示棒を自分で取りに行って、先を私に突きつけた。すぐにもう一度やるようにという意味だ。私は顔を引き攣らせながら、また背筋に力を入れた。
次の授業は、茶会でのマナー講習だ。先生は王妃様の友達だという公爵夫人だ。初対面から優雅な物腰を崩さない先生は、社交界ではマナーの手本として老若男女問わず尊敬されているそうだ。歳を重ねても儚げな印象の先生は、他の先生達よりもきっと優しいだろうと思っていたのは、最初の二日だけだった。
その穏やかさが様子見だったと気付いてからは、一番ましな時間から、嫌な時間に一瞬で変わってしまった。
「よろしいですか。以前から言っておりますが、微笑みは武器でございます。より上品な笑みを──」
先生は紅茶を一口飲んで、ふわりと優雅な微笑みを浮かべた。これが武器というのも頷ける。こんな笑顔を向けられたなら、会話の相手は一瞬で攻撃する気を失うだろう。
私は真似をしてティーカップに指をかけた。ここで食器をぶつけて音を立ててはいけない。水面が揺れているのが怖い。片手で優雅に紅茶を飲むって、実はそうとう筋力が必要なんじゃないの。もしかして、リュシエンヌ様もむきむきなのかしら。
私は紅茶をこくりと飲んで、口角を上げた。
「こう、でしょうか?」
震えないように細心の注意を払って、カップをテーブルに戻す。やった、置けた、と思った瞬間、先生がぱちんと手を打ち鳴らした。
「そんな接客する娘のような笑い方ではいけません」
「じゃあこう──」
つまり笑いすぎってことでしょう。そう思った私は、口角を下げた。頬に力が入っているのが分かる。
「どこが笑っているのですか」
「こう……」
今度は顔の力を一度抜いて、目を細めて口角も上げた。あ、これ、何も見えない。
「ふざけないでおやりなさいな」
それから一時間以上、私は笑顔を作り続けた。ちなみに、先生に合格を貰ったときの笑顔の形は、もう覚えていない。色々な顔を作り過ぎて、どれが正しかったのか忘れてしまった。
やっと一息つけると思って戻った自室の机の上には、新しい本が三冊置かれていた。ご丁寧に王妃様の手書きのメモまで付いている。貴族名鑑と、王族の歴史の専門書と、大人向けの聖典。メモには、『教会で結婚式をするのですから、暗記しておかないと恥をかきますよ』とある。
「──やっぱり無理ぃぃぃ!」
私は寝台にぽすんと飛び込んだ。ひらひらと重なったスカート部分のレースが追いかけるように落ちてくる。ごろごろと転がっても落ちない広い寝台の上で、私は侍女がいないのを良いことに暴れ回った。クッションに向かって拳を打つと、ぽふり、と羽毛が衝撃を吸収する。
「結婚するって言ったって……あの人、あれ以降一度も会いに来ないじゃない……」
私の一番の不満はそれだった。
あんなに熱烈に求婚しておいて、セドリック様は一度も私に会いに来ないのだ。最初こそ、もしかしてデートできるかもとか、お話しにきてくれないかなとか期待していた。しかし期待は裏切られ、最後に会ったのは婚約式の日。それからもう五か月が経ち、結婚式までもう一か月を切っている。
会えない、会えない、会えない。……会いたい。
ならば私の方から手紙を出すなりすればいいのだが、悩んでいるうちに、出したら負けのような気がしてきてしまった。だって、私は別に、セドリック様のことを好きでもなんでもない。
四か月前に書き上げた手紙も、二か月前に書き上げた手紙も、机の抽斗の中にしまったままだ。出せる日は、きっといつまでも来ないだろう。




