悪役令嬢になりそこねた女1
◇ ◇ ◇
「──え、オデット様が婚約? どなたとですの?」
私、リュシエンヌは王城のサロンでぽかんと口を開けた。それからすぐに、とても婚約者に見せられる表情ではないと気付き、慌てて扇で口元を隠す。
ジョエル殿下は全く気にならないというように、テーブルの上の菓子をつまんでいる。さっきからずっと食べている気もするが、ジョエル殿下はお腹が空いているのだろうか。
今日は、十日ぶりにジョエル殿下と会う約束をした日だった。
卒業と同時に、これまで以上に王太子として多忙になったジョエル殿下は、修業として陛下と行動を共にしている。私もまた王太子妃教育と社交で、ジョエル殿下となかなか予定を合わせることができなかった。
だからこの話を聞いたのも、これが初めてだった。
「近衛のセドリック・カステル侯爵だよ。リュシエンヌは知ってたっけ」
ジョエル殿下が楽しそうに言った。
私は、その名前を反芻する。セドリック・カステル侯爵は、とても優秀な近衛騎士だ。王太子妃教育を長い間受けてきた私にとって、知らないわけがない相手だ。それに、とても格好良い。
「カステル侯爵は存じておりますわ。あら──でも、それでしたら、良かったですわね」
「良かった?」
「ええ。侯爵をこの国に繋ぎ止めるための策なのでしょう? オデット様がお気に召されたのでしたら、丁度良いことですわ」
私はそう言って、目の前の紅茶を一口飲んだ。すうっと鼻を抜ける香りが異国のもののようだ。ジョエル殿下はたまに珍しいものを仕入れて飲ませてくれるから、これもそうなのだろう。ジョエル殿下は紅茶について聞いて欲しそうにちらちらとこちらを見ているけれど、今はこっちの話の方が興味深い。
私は気付かない振りで話を続ける。
「王家から打診されたのでしょう? それほどまでにオデット様の教育が進んだのでしたら、素晴らしいことですわね」
ジョエル殿下が、首を左右に振った。
「いや、それが違うらしい。何でも、侯爵の方から求婚したのだとか」
「えっ?」
私はジョエル殿下の顔を凝視した。その顔は確かに、嘘を言っているようには見えない。
「オデットが部屋から脱走した後、侯爵の方から父上のところに求婚を申し込みに来たんだってさ。でも決まっちゃったから、どうにかして嫁ぐまでに教育をしないといけないって、母上が──」
「何です、その恋愛小説のようなお話は!」
思わず椅子を引いて立ち上がる。がたん、と音が鳴って、どうしようもなく今の自分が動揺していることに気付いた。
私は一度椅子に座り直して、残っていた紅茶を思い切って飲み干した。やはり美味しい。
すぐに立ち上がって、身を翻す。
「リュ、リュシエンヌ?」
「少しでも早くオデット様にお会いしたいので、今日は失礼いたしますわ。一度帰って、お茶会の約束を取り付けないと──」
少しでも早く、オデット様とカステル侯爵のロマンスを直接聞きたかった。そのためには、今こんなところで油を売っている場合ではないのだ。
「ま、待って、リュシエンヌ。俺とのデートは!?」
「あら。お別れの挨拶がまだでしたわね。殿下、美味しい紅茶をありがとうございました」
「気付いてたの!?」
ジョエル殿下がぱかりと口を開ける。
「それでは、ごきげんよう」
私は走っているとは言われないぎりぎりの早さで、王城の廊下を歩いた。できるだけ人通りの少ないところを選んでいるので、誰かに何かを言われることもない。そもそも私を咎められる人など、そう多くはないのだけれど。
城門に待たせていた馬車に乗り込み、御者に邸に向かうよう指示を出す。馬車の中で、私ははっと顔を上げた。
「……そうだわ、久しぶりにレアも誘いましょう。一瞬のこととはいえ、義理の姉妹だったのですものね!」
レアもきっと、オデット様の話を聞きたがるはずだ。数少ない──というより、唯一の恋愛小説仲間なのだ。
「こんなに楽しいこと、なかなかないわ。ああ、やっぱりオデット様は、最高のヒロインよ……!」
手土産は何にしようか。オデット様は分かりやすく甘いものが好きだと聞いているから、そういうものがいいだろう。それとも、あえて街で人気の菓子屋のものの方が喜ぶだろうか。それもレアに相談して決めよう。
馬車はあっという間にバルニエ侯爵邸に着く。そもそも、馬車で移動するほどの距離でもないのだ。
侍女に頼んで着替えを済ませた私は、早速机に向かった。
「そうと決まれば、レアに手紙を書かないといけないわ」
選んだのは、薔薇の花の形に透かしが入っている便箋だ。前にレアと一緒に街に出かけたときに、私が使うには少し可愛らし過ぎるかと思いながらも、レアに勧められて買ったものだ。レア曰く、『絶対に似合うと思います!』とのことだ。
ちなみにその頃私は悪役令嬢になろうとしていたので、薔薇の模様はぴったりかもしれない! という勢いで購入した。
ペンはいつになく軽やかに走る。
書き上げたそれをラマディエ男爵邸に届けるよう頼んで、私はやっと落ち着くことができた。




