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37. さよなら

   37



 話をしていた時間は、そう長いものでもなかった。


 長々と話そうにも無理だっただろう。

 前世の自分には、本当になにもなかったからだ。


 こんなふうに自分を変えてしまったなにかがあったのではないか――と、カミコは言った。

 けれど、そんなものはないのだ。


 なかったから、こうなった。


 自分には、なにもなかった。


 生まれたときから病床にいて、ただただ、ひとりで死に抗い続けた。


 それだけ。

 ただ、それだけ。


 ああ。

 確かに自分は一度も『生きて』いない。


 生きのびるだけで、その生のうちでなにかをしたいという願望がない。

 実際、昨晩だって、カミコからの『外に出たらどうしたいのか』という問いかけに、答えを持ち合わせていなかった。


 自分は変わらない。

 変われない。


 だけど。


「……わかったよ、グレイ」


 すべてを話し終えると、カミコはそう言って優しく笑った。


「ありがとう、話をしてくれて」


 握られたままの手が温かい。


 そして、温かさはそこだけではなかった。

 いつの間にか近付いてきていたサクラが、左腕に寄り添うように座り込んでいたのだ。


 なにげなく彼女の顔に目をやって、グレイはぎょっとした。


「お、おい。サクラ、お前……」

「お兄様……」


 サクラの色違いの目から、ぽろぽろと大粒のしずくがこぼれ落ちていた。


 その姿を見て、グレイは動揺した。

 自分でも奇妙なくらいに。


「な、なんで泣くんだ」

「わかりません。わかりません、けど……」


 ひょっとして、病気で苦しんだことに同情されているのだろうか。

 可哀想だと、哀れまれているのだろうか。


 そう邪推したが、サクラの口にした言葉は違っていた。


「ひとりぼっちは、つらい、です」

「……え?」


 涙を拭うこともせずに、無防備なサクラは言ったのだ。


 なにを言われているのかわからない。

 いや。言っていることはわかるが、それがなぜ泣くほどなのかがわからない。


「そんなものは……別に、たいしたことじゃあ」

「違うんだよ、グレイ」


 言いかけたところで、今度はカミコが口を挟んできた。


「キミの最大の不幸は、不治の病をわずらったことじゃない」


 彼女は彼女で、その目に埋火(うずみび)のような怒りを灯していた。


「不運と不幸は違うものだよ。生まれながらに重い病にかかった子供は、確かに不運だ。だけど、彼らが幸せになれないなんてことはない。重い病にかかりながら、自分は幸せだと言える子供だっているんだ。その言葉を、誰も否定なんてできない」


 怒りをこらえるように拳を握りしめて、カミコは言った。


「だからね、グレイ。キミの最大の不幸は――キミの家族が、そこにいて愛を与えるべき誰かが、誰ひとりとしていなかったことだ」


 思わぬ言葉に、引っ繰り返された頭が追いつかない。


 確かに、自分は思っていた。


 高額な医療費を払い続けられる家に生まれたことは幸運で。

 家の面目を保つためだけにその金が支払われ、親の顔もまともに見たことがない環境だったのは不幸なことで。


 けれど、まともに生きられないくらいに重い病に比べれば、多少の幸や不幸なんて誤差みたいなもの。


 そう思っていた――当たり前のように、そう認識してしまっていた。

 それは決して、誤差なんて言葉で片付けてしまっていいものではないのに。


 知らなかった。

 与えられなかったから。


 そんな自分の境遇に、カミコは怒りを抱き、サクラは涙を流している。


「キミは生きることを知らなかった。当たり前だ。キミの家族は、キミに生きる喜びを与えなかったんだから。……正直、わたしは彼らが憎い」


 ふれたままのカミコの手が、激情の熱を帯びている。

 その熱が、彼女が本気で自分を想っていることを教えてくれていた。


「そのとき、わたしがいたら……お兄様を、ひとりぼっちにはしない、でしたのに」


 サクラに抱えられた腕に、涙が落ちて服に染みを作る。

 温かい涙は、彼女の想いを伝えてくれるかのようだった。


 ふたりとも、とても温かい。


 だからだろうか。

 真実を知らされたことによる衝撃は、薄れつつあった。


 認めよう。


 自分はこれまで、生きるためにがんばってきた。

 それだけが自分のすべてだった。


 だというのに、自分は一度だって生きてはいなかった。


 なにかをしたいという望みがない。

 なにかを楽しみたい気持ちがない。

 なにかを得たいという希望がない。


 人間として欠陥品だ。


 確かに、それは否定しようのない事実だった。


 けれど、これからもそうとは限らない。


 だって、あの冷たい病室とは違って――この場所は、こんなにも温かいのだから。


「カミコ。サクラ。俺は……」


 握られた手。

 抱きつかれた腕。


 前世での自分には家族すらいなかったけれど、いまの自分には彼女たちがいる。


 彼女たちと一緒なら、自分は今度こそ生きることができるのではないかと希望を抱いて――


 けれど、そのときだったのだ。


「――」


 不意に、全身を殴り付けるような凶悪な気配が押し寄せる。


 それは、絶望の到来。

 ようやく掴みかけたものが、こぼれ落ちる。


   ***


 その瞬間、全員が凍り付いた。


 それくらいに、その気配は圧倒的だった。


 死を。

 死そのものを思わせるほどに。


「な……っ」


 カミコが立ち上がった。


「この気配は……」

「おい、カミコ。これはまさか」


 グレイもまた、腕に抱きついたままのサクラを引きあげるようにして立ち上がった。


 知っている。

 自分はこの気配を知っている。


 まだ見える距離にはない。

 だが、近付いてきていることは、はっきりとわかった。


 カミコは白くなった顔で頷いた。


「……『封印の鬼』だ。間違いない。こっちに来てる」

「や、やっぱり」


 なにかの間違いかと思いたかったが、そうではなかったと確認できてしまった。


「なんでそんな……」


 のどが干上がる。

 この迷宮に転移してきた初日に遭遇した、あの最悪の鬼が近付いてきているのだ。


「あいつは、第三層から動けなかったはずだろ。なのに……ああいや、そうじゃない」


 グレイは言いかけて、かぶりを振った。

 魔物との戦闘を繰り返し、危険な迷宮を探索し続けた経験が、現実的な方向へと即座に思考を切り替えさせた。


「こっちに来てるなら、逃げないと。進路にいたら見付かる。いまならまだ間に合う」


 どうやら鬼は一直線にこちらに、つまりは、迷宮の外へと向かっているようだ。


 すごいスピードなので、これから全速力で迷宮脱出を狙っても追いつかれてしまうだろう。


 しかし、迷宮は広大だ。

 進路から外れることは簡単だった。


 当然、迷宮の脱出はできなくなってしまうが、そんなものは危険が去ったあとでいい。


「行くぞ」


 そうと決まれば、動くべきだ。


 グレイはサクラの手を引いて走り出した。


 しかし、10メートルもいかないうちに足をとめた。

 うしろからついてくるべき足音が聞こえなかったからだ。


 振り返れば、そこに立ち尽くすカミコの姿があった。


「おい。なにをしてるんだ。早くしないと」


 不可解な行動にとまどいつつも、グレイはサクラを連れて元いた場所まで戻った。


「あの鬼がどこを目指してるのかはわからない。なるべく進路から離れないと、絶対に安全とは言えない」

「大丈夫だよ、グレイ」


 と、カミコは断言した。


 奇妙なくらいに確信を帯びた口調は、どこか不吉に通路に響いた。


「あの鬼がどこを目指しているのかはわかってるし、グレイたちは絶対に安全だと言い切れる。……ま。そのためには、必要なことがあるけどね」

「なにを言って……」


 言いかけた声が途切れる。


 カミコが首に腕を回して、ぎゅっと抱きついてきたからだ。


「さよならだよ、グレイ」


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