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森界のローレライ

一部の高地以外は、巨木が支配する異境、『森界』に覆われている。

森界には未知の薬や遺物がある一方、大気は呼吸不能で、危険な巨獣も多い。


主人公トウゴは医者として研究者として、そんな森界に入り、植物を採取する生活を続けていた。


ある日、トウゴは森界から少女を救出する。

あどけない少女ロロはすぐに他の子供達となじむが、子供たちはやがて『歌が聞こえる』と話すようになる。


原因を調査している間に、トウゴが住んでいる町から住人が消えてしまった。ロロも一緒に。

わずかに残った人も『歌が聞こえた』と口を揃える。

その旋律は、ロロがよく口ずさんでいたものと同じであった。


森に消えた住人を追って、トウゴは森界の奥へと潜行する。

 歌が聞こえて、トウゴは足を止めた。

 森の底は暗い。そして静かだ。

 樹高100メートルに届く木々が陽を遮り、生い茂る苔やシダ類が音を吸収してしまう。特有の緑がかった霧があちこちにうずくまっていた。

 耳を澄ませる。

 押し殺した息は呼吸器に吸い込まれた。背中にマウントされた循環器は、森で生命を維持する必需品だ。


 巨木が支配する異境――『森界』では、外殻と生命維持装置がなければ生きられない。常時、潜水服を着ているようなものだ。

 外の音は直接耳に届きにくい。

 聞こえた旋律は、無線機のノイズか、それとも人恋しさの空耳か。

 可能性は多く時間は限られている。

 深入り不要、と結論づけた。


「採取を継続する」


 トウゴは呟くと、地面に置いたザックを見た。

 中には植物の葉や、花、そして種子が詰まっている。

 機械が壊れたら絶命もありうる環境で、一人でうろつくのは正気の沙汰ではない。けれども収穫を思えば、リスクを冒す価値は十分にある。


「……研究もできるし、薬もできる」


 可愛らしい声で先生、先生、と呼んでくれる声が思い出された。

 無線機がノイズを吐く。


『ハァイ、博士』


 声は女のものだった。

 トウゴは葉を採取しかけた手を止める。


「聞こえてる」

『順調?』

「おそらく。子供達を抱き締めてやるのが楽しみだよ」

『……ロリコン』

「違う。愛だ」


 何が違う、という相棒の言葉は無視する。

 危険があれば相棒がすぐに降下してくる手はずだが、危険を察知するのはトウゴの役目だ。それも終わりだが。


「採集は終わった、そろそろ帰投する。船を寄せてくれ」


 森界には豊富な植物がある。

 彼らは化学の先達だ。

 人類がまだ到達できていない化学反応、薬剤も森界なら手に入る。

 なんといっても大気を満たしている物質からして、もう森界独自のものなのだ。


『はい、センセ』


 ちり、とひりつくような不機嫌を感じる。

 かつてトウゴも相棒も森界により多く潜り、貴重な遺物を収拾して生計を立てていた。ハイリスク・ハイリターンの生き方。

 森界に潜る存在はダイバーと呼ばれる。


 中でもトウゴ達は知られた名だった。

 それが今や人口100人ほどの生存域に身を寄せ、孤児を引き取ったり、医者をして、先生と呼ばれている。

 刺激がなくて相棒は不満なのだろうか。


「……いずれ忙しくなるよ、いずれね」


 上空を見上げると、木々の隙間に楕円の影が見えた。

 飛行船だ。

 森界を満たしている緑の大気へと、船は『着水』する。淡い緑色が飛沫をあげた。


『上がってきて』


 飛行船とトウゴの間には、なお100メートルの落差がある。

 彼はその差を瞬時にゼロにする術を持っていた。

 トウゴはザックを拾おうとして、止まる。


『トウゴ?』

「声だ」


 振り向く先は森の奥。わずかでも陽が差しているトウゴの位置とは異なり、木々が極相状態となり海底のように光が届かなくなっている最奥部。

 大きな岩が視界を塞いでいる。

 トウゴは耳を澄ませ、指向性マイクの感度を最大にした。


鮫猿(サメザル)だ」

『えぇ?』

「足音がする」


 集音マイクに耳を澄ます。


 ――助けて。


 声に導かれるようにトウゴは地を蹴った。

 外殻に包まれた体が浮き上がる。トウゴの呼吸と体温を感知して、生命維持装置が唸りを高くした。

 周囲を満たすのは、緑がかった森界の大気。

 トウゴはそれを駆け抜け――否、泳ぎ抜けた。


 森界の木々は、光合成により特殊な気体を放出する。エーテルという。比重は酸素より重く、その緑がかった物質が森界では大気組成の大部分を占めていた。

 呼吸器が必要なのはそのためだった。

 だがある才能を持つ人間は、その大気を泳ぐことができる。


 脳が命じた瞬間、水中のように重力を感じなくなる。

 縦に泳ぐこともできれば、風を――エーテルの流れを水流のようにつかまえて、素早く移動することも可能だ。

 200メートルを泳ぎ抜け、トウゴも救難者の元へ到達する。


「発見した」


 対象は2つ。

 森界の豊富な栄養で巨大になった、鮫猿という大物。類人猿の亜種だが、彼らにヒトの親戚という意識は皆無だろう。

 今まさに丸太のごとき腕を振り上げ、スーツに包まれた小さな体を砕こうとしているのだから。

 鮫猿の首元にはエラのような切れ込みがある。エーテルを吸い込むための臓器が進化によって獲得されているのだ。蒸気に似た息が、斜めの切れ込みから吹き上がる。


「子供がいるっ」


 線が細い。骨格からして、少女か。


『はぁうそ!? あたしも――』

「待機だ」


 短く息を吐き、少女と鮫猿の間に割り入る。

 殺到する大腕。

 トウゴは手を前に広げた。

 限られた人間は、大気中のエーテルを自在に操ることをもできる。

 作ったのは、壁だ。

 エーテルの力場が鮫猿の拳を跳ね返した。


『やった?』

「まだだ」


 トウゴが腰から引き抜いたのは『柄』だった。銃のように引き金がついており、トリガーガードもある。

 だがその上にあるべき銃身も、どころかいかなる器具もついていなかった。

 銃握だけの銃。

 トリガーを引く。

 すると緑の飛沫があがり、半透明の刀身が形成された。

 のしかかろうとする鮫猿に向け、まっすぐ突き立てる。力場の刃は、厚さが限りなくゼロだ。易々と肉を断ち、鮫猿の頸椎を貫く。

 血の雨が降った。

 トウゴは力場を張り、救護者ごと包む。


「行こう」


 スーツの内側で、泣きじゃくる子供。

 トウゴは自分の頭と、子供の頭をくっつける。そうしないと直接声が伝わらないのだ。

 2人を中心に血の花が咲いていた。


「大丈夫だよ」


 子供の目は翡翠のような――あるいは植物のような緑。

 保護者はいるのだろうか? 仲間は? 疑問は湧くが集音マイクの沈黙が答えだった。


「……上にあがる」


 寒気がトウゴの身を貫いていた。

 血の匂いを察して、次の生き物がやってくる。

 逃れよう。

 浮き上がってから、巨木を蹴りつつエーテルの上昇流を起こす。

 子供を抱いて、上へ、上へ。

 トウゴは微かに歌を聴いた。

 歌は少女の愛らしい唇から、漏れ出すように紡がれていた。


「ありがとう、助けてくれて――」


 少女は涙を流しながら、トウゴの首をぐっと抱き寄せた。



     ◆



 少女もトウゴも去った、森界の底。

 やがて森界に住む捕食者がやってきて、鮫猿の巨大な肉を解体にかかる。あらゆる生物が栄養素を取り合う森界で、大型の肉は貴重だった。

 類人猿の死骸から少し離れた位置で、獣たちはさらなる発見をする。


 それはひとまとまりにされた屍体の山だった。

 いずれも森界のためのスーツを身にまとっている。

 ただ凄まじい力で絞め殺されたような跡がいずれの外殻にも歪みとして残っていた。

 森界を横断するのに、車輌が通れる道路はない。空は発見の懸念がある。そのため秘密裏の地上運搬は、もっぱら人間の足になった。

 彼らもそうだったのだろう。


 数名で担ぐサイズの檻が屍体の側に放置されている。


 檻は開き、『ローレライ』と刻まれた銘板に血が付着していた。

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