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挨拶はすべての基本であり、時に武器にもなる。ここ異世界においても。

 李遠(りおん)玲那(れいな)の兄妹はひょんなことから異世界に転移してしまった。そこは角をもつ獣人たちの世界だった。妹を捜したい。その一心で苦手なコミュニケーションを図ろうとした李遠が挨拶の言葉を口にすると……彼が発した挨拶の言葉はこの異世界での呪文だった。風が吹き荒れ、火の玉が降り、光が爆発し、水の壁が現れた。

「挨拶ってのは、すごい魔法なんだ。人と人を繋ぐ力、打ち解ける力。逆に距離を取る力。武器にもなれば、防具にもなる」

 パパはそう言っていたが、それは決して、こんな意味で言ったわけじゃなかったのだろう。だけど、確かに武器にも防具にもなった。

 保護してくれた獣人オルディマムの力を借りて、七歳の少年の異世界での冒険が始まる。なんとか妹を見つけ出し、二人でまた元の世界へ、パパとママの元へ戻る、その日のために。

「リオン、遅れずついてきな!」

 そうは言われたものの、李遠(りおん)はわずか七歳。それも彼らに言わせれば「(つの)なし」の人間種の男の子。彼の足では、獣人たちの並外れた脚力についていくのは至難の業だった。

 それでも少年は泣き言一つ言わずに頑張っていた。自分の身長よりも直径のある、太い木の根にかじりつくようによじ登る。ずるりと苔に足をすくわれながらも踏ん張って、次の太い木の根に爪を立てて登る。そうして、必死に後を追いかけた。それでも、みるみる距離があき、気付いてみれば、うっそうとした森の中で一人取り残されていた。


「オルディマム! どこ……!?」

 不安に声が震え、尻すぼみに弱々しくなる。

「オルディマァァム!!」

 心を鼓舞し、あらんかぎりの声を振り絞って呼んでみた。しかし、空の光の半分も届かぬ森の底では、音が下草や苔に吸収されるのか、まるで響かない。


「リオン、こっちよ!」

 獣並みの聴覚を持つオルディマムには、声が届いていたらしい。凛とした錐を通すような鋭く高い声が聞こえてきたが、それは少年が見当をつけたのとはまるで違う方向からだった。

「え、どこ!?」

 キョロキョロと辺りを見渡したが、オルディマムたちの姿はどこにもなかった。それどころか……


 ガサッ! ガサガサガサッ!


 不意に目の前の茂みが大きく揺れた。()()が居る。オルディマムたちではない何か。


「ひっ!」

 恐怖を感じ、本能的に後ろへ飛び下がると同時に、目の前の茂みに向かって叫んだ。

「お、おおおっ! おはようございます!!!」



 ※   ※   ※



 事は三か月ほどさかのぼる。

 李遠(りおん)は両親と、二歳年下の妹の玲那(れいな)と一緒にF市郊外にある巨大なショッピングモールに来ていた。


「パパとママ、お買い物済ませてきちゃうから、ここで待ってて。李遠、ゲームばかりしてないで。ちゃんと玲那を見てるのよ」

「レイナがお兄ちゃん見てるから、大丈夫だよ」


 せめて父親か母親のどちらかは子どもたちのそばに残っているべきだったかもしれない。しかし、通い慣れたショッピングモールだし、人の目も多い明るい場所だった。事件や事故に巻き込まれる心配など、思いもかけないことだった。子どもたちをメインストリートに配されたベンチに残し、買い物に行っていた時にそれは起きた。


「ねぇ、お兄ちゃん。銀色のカーテンがある……」

「ん、ん……」

 ポータブルゲームに集中していたために、少年は生返事を返しただけだった。ちょうど中ボスを攻略中で目が離せなかったのだ。

「変なの。他の人には見えないのかな。お兄ちゃん、なんだと思う?」

「ちょっと……待って、あと少し……」

「もう……」


 体感で十秒。実際の時間でも、せいぜい三十秒程度しか経っていない。しかし、ふっと妹の気配が消えたことに驚き、彼はゲームを中断して顔をあげた。

「レイナ?」


 妹の姿はなかった。

 そのかわりに。目の前には、ショッピングモールのメインストリートを塞ぐように大きな銀色の光のカーテンがあった。カーテンの向こう側はうっすらと透けて見えていた。


「レイナ!」

 他の人たちにはこの銀色のカーテンは見えないらしい。平気でカーテンに突っ込んでいく。向こう側からも普通に通り過ぎて現れる。みんなこのカーテンを素通りしているのだ。

 ――なんだこれ?


 少年は妹の気配が突然消えたのはこの不思議な銀色のカーテンが原因かもしれないと、思いっきって突っ込んだ。



 ※   ※   ※



 霧雨が顔を打つ。李遠は突然屋外に立っていた。

 ごつごつとした赤茶色の崖がそそり立つ窪地に、大きな岩を組み合わせて作られたアーチが円形に並んでいた。

 自分が突然見ず知らずの地に居ることに面食らったが、それはそこに居合わせた者たちも同様だった。


「お前、どっからきた? (つの)なしのガキがこんなところでなにしてやがる」

「ここはガキの来るとこじゃねぇ。ママのとこへ帰んな!」

「あ……あ……」

 ――またいつものだ。言葉がでない。


 李遠は、突然知らない人から話しかけられると極端に緊張するところがあった。口元にひきつった笑顔を貼り付け、目が泳いで涙が浮かぶ。そんな顔を人に見せまいと、少年は俯いてしまう。俯くと喉の奥がきゅっと細くなって息がくるしくなる。そして、なにも言葉が出てこなくなってしまうのだ。


 しかも、何を言っているのか分からなかった。知らない言葉だった。姿も人間ではなかった。全身が体毛に覆われ、頭には角があった。そんな獣人たちに恫喝されて、少年はおしっこを漏らしそうなほど恐かった。


 ――そうだ。玲那!

 獣人の人だかりの真ん中で回りを見渡しながら妹の姿を探した。

 自分がゲームにかまけていたせいだろうか。そんな風にどこか引け目を感じていた。このまま妹が見つからなかったら、自分を許せないだろう。なんとかこの窮地を脱したい。玲那のためにも。この恐い人たちに妹を知らないか、聞かなきゃならない。


 ――なにか、なにか言わないと。妹のことを聞かないと。なにか、なにか言わなきゃ。なにか……挨拶。そうだ、挨拶だ。


 彼は見ず知らずの人に挨拶をするのが苦手だった。普段、マンション内ですれ違った人とすら挨拶が交わせず、両親からたびたび注意されていたほどだ。


「李遠も玲那みたいにちゃんと挨拶しなきゃ。挨拶ってとても大事なのよ。マンションの中で会う人はご近所さんなんだし」

「挨拶ってのは、ただの言葉だけどな。すごい魔法なんだ。人と人を繋ぐ力、打ち解ける力。逆に距離を取る力。武器にもなれば、防具にもなる。きっと李遠を守ってくれる。だから、いつか挨拶出来るようにならないとな」


 ――パパの言ってた「いつか」。それが今なのかも。


「お……お…はようございます!」


 少年が咄嗟に口にしたのは朝の挨拶の言葉だった。いまが朝かどうかは定かではない。が、そんなことよりも……。

 驚いたことに、少年がそう言葉を発すると、突風が吹き、目に見えない空気の渦が石組みのアーチの一角をなぎ倒した。


「なんだ? おい、ガキんちょ。これはお前がやったのか!?」

 言葉は分からないが、責められているのは分かった。しかし、何が起きたのか、少年にだって分かるはずもない。


「ご、ごめんなさい!」

 そう言って頭を下げると、今度は振り下ろされた少年の頭の動きに連動して拳ほどの大きさの火球が空から降ってきた。


「うわっ!」

「おい、なんだ!?」

 角をもつ男たちが火球を避けて空を見上げながら声を荒げた。その声に堪らず、彼は何度も何度も謝った。


「ご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!」


 その場で頭を抱えながら、少年は謝り続けた。


「おい、坊や。その辺にしときな。私の部下が皆ーんな伸びちまった」


 言葉の意味は分からないが、その凛とした錐を通すような鋭く高い声に、はっとした。少年は口を閉じ、代わりにそっと薄目を開けた。火球に打ちのめされた男たちが、地面にうずくまって呻いていた。そして目の前には、リーダー風の女性の獣人が立っていた。


「やれやれ。とんでもない坊やだね。名前は?」


 何を言っているのか分からなかったが、名前を聞かれたような気がした。


「リオン……。あ、あの……妹を知りませんか? レイナって言うん……で……」


 そこまで言うと、少年は、ふらりと上体を崩し、意識を失って倒れてしまった。もう少しで後頭部を地面に打ちつけるというところで、彼女は少年を素早く受け止め、そのまま軽々と横抱きに抱き上げた。


「こんな小っさい体のどっからこんだけの魔力を出したかね。妙な真言だし」


 彼女は、少年が火球を放ちながら唱えていた真言を唱えてみた。


「GoめンNaさイ!」


 ……なにも起きない。


「……ふん」


 リーダー風の女はオルディマムと言った。「オルディ一家のお袋さん」といった意味だった。普段は手下の男たちを睨みつけて恐い顔を作っているが、笑うとえくぼのできる美人だった。



 ※   ※   ※



「さ、食べな。あんだけの魔力を出しゃ、腹もへるだろ。意味わかる? 食べなって。ほら」

 ジェスチャーで目の前の食べ物を食べる仕草をしてみせる。テーブルには、色とりどりのフルーツや、何かの獣を焼いたもの、燻製にしたもの、根菜を煮たものなど、色も香りも食欲をそそる料理が並んでいた。李遠は唾が口に広がる感覚を感じながら、両手を合わせた。


「いただきます!」


 少年がそう言うと、突然テーブルの真ん中に、真っ白な眩い発光体が現れた。発光体は、食事を、テーブルを、李遠を、オルディマムを、一緒に食事を囲んでいたその他の男たちを、みんな飲み込んで膨らんでいった。

 オルディマムのアジト全体にズンッと重い地響きが鳴り渡り……、白煙立ち込めるダイニングから、目と耳を抑え、咳き込みながら獣人たちが這い出てきた。


「リィィィィィオォォォォォン、てめぇっ!」

「ご、ごめんなさ……んっご!」


 オルディマムが慌てて少年の口を塞いだ。

「やめろ! 私のアジトがぶっ潰れちまうよ!!」



 ※   ※   ※



 妙な縁でオルディマムに助けられて三か月。オルディマムの仕事を手伝うために、少年は初めてオルディマムに同行して森へとやってきた。……がはぐれてしまい、そして目の前の茂みに向かって叫んだ。

「お、おおおっ! おはようございます!!!」



『挨拶はすべての基本であり、時に武器にもなる。ここ異世界においても。』

 その1 おわり

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