ジェーン・ドゥと希望の舟
人々の生活が現代よりも遥かに合理的に、効率的になった近未来では、自殺率も飛躍的に上昇していた。
そんな近未来の電子の大海には『自殺サービス』というものが存在している。
責任者は「No-a-doc」ことドク、サービスを実際に提供するのはジェーンと呼ばれる女性。
ひそかに営業を行っていた彼らだが、責任者のドクは事故で亡くなってしまう。
ドクの死後、彼の隠し子と出会ったジェーンはなし崩し的に彼と仕事を始めることになる。
その日から「――たとえ何が起こっても、人の死に触れ続けた自分は動じない」と考えていたジェーンに変化が生じていく。歪で醜くて、弱くて、なのに心に染みついて離れない何か。その何かに変えられていく自分を誤魔化せなくなっていくジェーン。
次第に彼女は自分自身と向き合うことになって……。
これは人でなしによる人間達の物語。
けたたましい電子音。またあの夢を見た。
仕事の後に見る同じ夢。その目覚めは最悪以外の何物でもない。
気怠い身体を何とか起こしてアラームを止め、枕元に置いてあったラベルのない飲みかけのペットボトルを手に取る。無味無臭という、臭くて不味い水を飲み干す。
ベッドから立ち上がり、机の上に置かれた煙草と灰皿を持ってベランダへと向かう。
カーテンをかき分けて大窓を開けると、微風が髪を梳いていく。
ベランダへと足を踏み入れれば、見慣れた景色が繰り広げられる。
生命の輝きに、思わず目を細める。
何一つ変わらない日常でしかない。その昼下がり。
煙草に火をつけて一口吸い込む。甘くて辛いハイライトは、替えのないものだ。吐き出していく。全身の血流を感じ、私のカタチを取り戻していく。
二口目は目を開けて吸い込んでいく。まだ瞳の奥が痛いが慣らしていく。陽光に照らされた世界は燦燦と、風に遊ぶ緑の匂いが満ちている。澄ました空が降り注ぎ、峰を仄かに染めた頃、三口目を吸い込んだ。
ようやく身体が起きてくる。思考はまだまだ回らない。
煙草なんてやめるべきだという声が強い時世だが、これはある意味での形見だ。だからやめる気もない。煙草を捨てるのはきっと彼を忘れた時だ。
寝起きの一服を終えたところで、ベッドの方から着信音が鳴る。
出ればドクからだった。
「おはよう。調子はどうだい」
「最悪」
「いつものやつか」
「うん」
「ところで、また依頼が来てたんだけど」
「わかったわ、あとで行く」
電話を切ってシャワーを浴びに向かう。
昨日は一つ依頼をこなして、その後はドクに運んでもらった。彼も前に比べて仕事が出来るようになったと思うけれど、それでもまだ未熟だ。身体を拭いてくれてもいいだろうに。服も昨日のままだし。まあ、一緒に仕事を始めて数か月だから仕方のないことだろうけど。
服を脱いで、浴室の鏡に映る自分の身体を眺める。この仕事では肉体も商品だ。傷は残っていないし、血の気がないのもいつも通りだ。肩にかかる程度の白い髪も紅い瞳も問題ない。いたって正常だ。正直こんな身体のどこがいいのか、私にはわからない。
浴室に入り、シャワーを浴びる。
私は他人が持つ髪色や肌の色を持ち合わせていない。アルビノではないが、それと近しい色合いをしている。どんなことをしても、翌日にはすべて元通りで、治癒も異様に速い。
そして、最大の特徴として、私は死ぬことが出来ない。自殺しても、一時的に死ぬだけですぐに生き返る。いわば、不老不死というものだ。
だから、それを活かして仕事をしている。もちろん、楽なわけではない。死ぬときに味わう痛みは覚えているし、死ぬことに慣れるわけではないのだから。
シャワーを終えて、ジーパンとシャツの軽装になる。
台所へと向かい、冷凍庫からパック詰めされたほうれん草とベーコンの炒め物を取り出して、電子レンジで温める。主食といわれる炭水化物はたまにしか食べない。量的にも内容的にも質素な食事であることに変わりはない。ただ、それで事足りるというだけ。
健康的かつ煽情的な肉体であるための食事だ。
いつの間にか食べ終わっている。その感覚が正しい。
することもなく、部屋を眺めてみる。この部屋は白で埋め尽くされている。
食器から冷凍庫、フローリングやカーテンに至るまですべてが白で統一されている。
人の気配がしない部屋。
人間らしいものと言えば、白い本棚に仕舞われた本と数多揃えられた服ぐらいだ。
服は商品価値を高めるためのものだし、本は私が購入したものではなく、ある男が忘れていったものだ。その男から部屋に色を取り入れろと言われたこともあったが、落ち着かなかった。
着飾ることは楽しいのに、部屋を彩ることは苦しかった。
どこか冷めた自分がいるのだろう。私は人間ではないのだ。そんなふうに。同じ人の形をしていても、彼らには終わりがあって、私にはない。漂白されたこの部屋の方が、私には合っている。
それに、人は愛した人間が死ぬと、その残り香に心を乱されると聞いた。ならば、この場所 には何もいらない。これ以上受け入れてしまったら、私は弱くなる。願望に気付かずにいれば、諦めてしまえば、それ以上傷つくことはない。私が私であるためには、これでいい。
そろそろドクのもとに向かわねば。思考を断って家を出る。
彼のアジトに辿り着いてチャイムを鳴らす。二、三、二のリズムの後に、ショートメッセージを飛ばす。それが合図だ。
ドクが鍵を開けたのを確認して中に入る。
「いらっしゃい」
「もう少しなんとかならないのかしら」
彼の後に続きながら文句を言う。流石に意識しすぎな気もするけれど。
「仕方ないだろ。俺たちがやってる事を考えると」
「誰かさんは報酬に目が眩んでなかった?」
「利口だって言ってほしいな」
「ならせめて女性の扱い方ぐらい心得るべきだと思うわ」
「それは……まあ」
言い返せないままドクは椅子に座る。相変わらずモノで溢れている部屋だ。
「それで、次の依頼は」
「まあ、普通のサラリーマンだよ」
画面上に依頼人の情報を繰り広げていく。
「希望は『寝てるうちに』らしい。あとはいつも通りの内容だろうし、『仕事場』で問題ないと思うんだけど、どうかな」
「良いわ。代わりに脳漿を片付ける覚悟をしておいて」
彼の死体の処理は甘い。未熟だと思う最大の部分だ。
「まあ、うん。とりあえずはベッド一式を新調だね」
「ええ」
仕事に取り組もうとする姿勢は問題ない。しかし、後処理が彼の本当の仕事だ。まだ慣れていないとは思うが、三件目になるのだから頃合いだろう。
「それじゃあ、必要なものを言ってみて」
「ええと……。まずは依頼人の情報。特に財産だとか、素性をすべて。次に、いつもの睡眠薬と拳銃、あとは新調するベッド周りかな」
「合格。それじゃ、あとは依頼人を洗って。少しでも不審な点があったら断って」
「わかったよ」
「それじゃよろしく」
そう話を切り上げて帰ろうとしたところで背後から呼び止められる。
「どうしたの」
「いや、その……親父のこと教えてくれないか」
彼の父親は私の仕事仲間だった。『先代のドク』で本名はノア。交通事故で勝手に死んでおきながら、私への遺書を残した用意周到な男。それが今の私たちを繋いだ。
「どうして知りたいの」
随分に突然だったから、一応訊ねてみる。
「ずっと聞きたかったんだ。アンタ宛ての遺書を書いてるぐらいだから、親しかったんだろ」彼の目はとても臆病だ。
逡巡するが、私たちの出会いから今に至るまで詳しく話してはいない。であれば、たしかに彼には知る権利がある。
だが、それは逃げ道を失うということを意味する。
「ドク。いいえ、クリストファー」
だからその目をしっかりと見据える。
彼が知ろうとしていることは、私の秘密なのだと伝えるために。
「本当の事を教えたら、あなたは責任を求められる。その覚悟はあるの」
「ある。だから聞いたんだ」
沈黙の間、彼は目を逸らさなかった。蛮勇にも似た決意に変わりはないが、彼なりに考えることがあるのだろう。部屋へと戻り、ベッドに座り話し始めた。
「私とドク、つまりはあなたの父親であるノアとの関係だけど、恋仲だったのよ」
私とノア――先代のドク――は初め仕事仲間だった。彼から誘われてこの仕事を始めた。理由は利害関係が一致していたから。
ノアが依頼人の素性を洗ったり後処理を担当して、私が依頼人と心中する担当だった。今では当たり前の自殺前セックスも、ノアのアイディアだった。あくまでサービスとして、だけれど。
最後のセックスとなると、依頼人の多くが情熱的で、それでいて獣のようだった。どんな乱暴なプレイにも応えたし――まあ断ったりしたものもあるけれど――従順な私の前では、自殺前とは思えないほど優しい笑顔を向けてくれる人も多かった。
事務的な行為じゃなくて、自分のすべてを相手に尽くすことで、初めて彼らは心を開いてくれる。それは一概に媚び諂うことではなくて、その人を知るということ。そして、その瞬間だけは、私が人間として求められているのだと認識できた。
そうやって依頼をこなしていたある日のこと、私は彼に抱かれた。
初めて生きようとする人に抱かれた。私たちが恋仲になったのはそこから。
今になって思えば、彼は私を憐れんでいたのかもしれない。でも、それを抜きにしても、彼はありのままの私を受け入れてくれた。私には、愛するという意味がわからないけれど、恐らくは彼のしてくれたことを言うのかもしれない。私にとっての帰る場所がノアだった。
でも――。
「滑稽よね。死神みたいな仕事をしてた私が、彼の最期さえ看取れなかったなんて」
ドクは黙って静かに聞いていた。その表情は今までに見たことのないもので。
らしくないことをした。きっとこれも夢のせい。
――あなたが私の夢に出てくるせいよ、ノア。
「まさか本当に話してくれるとは思わなかった」
そう言って彼は仕事に戻る。その背中はどこか覚悟を決めたもののように思えた。少しぐらいは期待しても良いかもしれない。
用事も終わったと立ち上がろうとしたとき。
「それで、もう遅いけど泊ったら」声をかけられる。
でも、こちらを見てはいなかったから。
「いいわ。帰れるから」軽くあしらった。
「わかった」
立ち上がり玄関に向かう。
「これはアドバイスだけど」
ドアに手をかける。
「女性の誘い方をもう少し学んだ方がいいわ」
そう言い残して扉を閉めた。
そんなくだらない、いつかの軽口をたたいて。
――嗚呼、馬鹿らしい。





