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月の雫が散る前に

 【月の雫症候群】

 月がなくなる夜、何かが消えてしまう体質。


 樫井蒼太郎が住む下宿先の先輩、因葉なつも、その特殊な体質のせいで記憶をほとんど全て無くしてしまった。

 

 それまでとは違って無邪気で無知ななつに、蒼太郎は動揺する。


 どうにかなつの記憶を戻そうとする蒼太郎は、記憶を無くす前のなつが書いた『思い残しノート』を頼りに彼女の記憶を辿っていく。


 友だちや家族、そして【月の雫症候群】のこと。


 彼女の思い残しを辿っていく中で関わりが増えた蒼太郎は、今のなつに告白される。

 けれど彼の中にはかつてのなつがまだ残っていて。


 同じはずの二人の間で揺れる心に悩む蒼太郎。月の雫が散る前に、彼は答えを見つけられるのか。

 

 ──そしてまた、月の無い夜がやってくる。

 月が、俺を見ている。

 下宿先の縁側から仰ぐ満月は、そう思うほどに大きかった。

 今まで月なんてろくに見てこなかったから、春の空に浮かぶあの存在感に目が吸い寄せられる。


「樫井くんも皆既月食見に来たの?」

「因葉先輩……まぁそんなところです」


 俺、樫井(かしい)蒼太郎(そうたろう)の背後から、声がかかる。

 そこにいたのはふわりとしたボブカットの少女だった。

 因葉(いなば)なつ先輩。先月俺が下宿を始めた『はなぶさ荘』の先人であり、一個上の高校二年生だ。


 その腕にはウサギが抱かれている。

 だいふくと呼ばれているその子は、照らす月明かりの下で真っ白な毛並みを輝かせている。

 

 因葉先輩はすとんと俺の隣に腰を落とす。 

 毎晩月を見上げている彼女の特等席だった。

 

「自由を求める探究者くん。下宿にはもう慣れた?」

「…………」

「うわすんごい目。ごめん、もう忘れるから」


 一体どんな目をしていたんだ、俺。

 いやまぁ身から出た黒歴史なんだけども。


「……まぁ慣れましたよ。その節はご迷惑をおかけしました」

「ふふ、気にしないで。何たって私は先輩だからね」 


 胸を張る先輩。

 背丈が小さめなのもあって、どこか可愛らしい。



 親戚が大家をやっている下宿で一年間暮らしてみること。

 高校と日常生活を送れないと判断したら家に帰ってくること。



 それが一人暮らしの自由に憧れる俺に両親が出した、二つの条件だ。


 俺を出迎えたのが、同居人である因葉先輩との共同生活だった。

 親に騙されたと感じた俺は、つい文句が口を突いてしまったのだ。


『俺は自由を探し求めてやってきました。一年経ったら出て行くつもりだから、仲良くするつもりはありません』


 ……あの時の俺に言いたい。

 もうちょっとマシな言い方はなかったのかと。

 しかも賄いがあるのに自分で料理を頑張ろうとしたせいで、先日は熱を出して寝込むハメになっていた。


 本当に、先輩には頭が上がらない。

 

 間に挟まるだいふくを時々こねながら、先輩の話を聞く。

 皆既月食は月と原理的に同じだとか、今日の月は一際大きいスーパームーンの仲間だとか。

 そんな話をする中で、ふと思い出したように先輩が声を上げた。


「そうだ、樫井くんに心理テストしてもいい?」

「急ですね」

「ちょっと聞いてみたくなって。最近友だちの間で流行ってるんだよね」


 ぴんと人差し指を立て、「じゃじゃん!」と効果音までつけてくる。

 

「なんと! 樫井くんは明日全部の記憶を忘れちゃいます!」

「……急ですね」

「だって心理テストだし」


 それもそうか。


「でもね、特別に何でもいいから一個だけ覚えておくことができるんだ。さて、あなたは何を覚えておきたい?」

「うーん……」


 腕を組んで考えこむ。

 家族や友だちは覚えていてくれるだろうし、漫画やゲームなんかは記憶を消してもう一回やるのもきっと楽しい。

 だとしたら──


「──『ここに来た嬉しさ』ですかね」

「ほむ?」

「前にも言ったと思うんですけど、俺は一人暮らしすることが夢だったんです」


 母さんが再婚して、居心地が悪くなって。

 そんな家を出ることは俺にとっての一大プロジェクトであり目標だった。けれど、そのためには親を納得させる必要があった。


 料理や掃除が一人でできることを証明して、お金の管理もちょっと勉強して。


 荷物を抱えてはなぶさ荘を見上げた時のワクワクは、忘れたくない。


「あの感情を覚えていれば、きっと俺はどんなゴールも目指していける。そう思うんです」

「……なるほどね」

 

 俺の話を、先輩は笑わずに聞いてくれる。

 それがとても嬉しかった。


「先輩はどういう答えを出したんですか?」

「まだ出せてないの。自分のことか、友だちのこととか、樫井くんや大家さんのこととか。どれも大切な思い出だからこそ、選べなくて」

「そ、そうですか」


 出てきた自分の名前に少し動揺する。

 たった一ヶ月半ほどのことだけれど、自分とのを大切と言ってくれた。

 そのことが妙にむず痒い。


「でも樫井くんの答えを聞いてちょっと思いついたかも。思い出じゃなくてもいいんだ。そっかそっか」


 納得したように何度も頷く因葉先輩。

 どうやら先輩の役に立てたらしい。


「あ、もうすぐ始まっちゃう……」


 先輩と一緒に俺も夜空を見上げる。

 雲ひとつない空の中、満月が僅かに歪み始めていた。


 月が空から消えて行く。

 月が太陽に喰われていく。

 

「ふわぁ……」


 隣で小さく、声が漏れた。


 月から視線を外せば、くらりと体がこちらに傾いていた。

 危機を察知しただいふくが先輩の膝上から飛び出していく。

 鼻を掠める甘い匂いとともに、俺の膝に彼女の頭が乗っかった。


「……!」

「すぅ……すぅ……」


 思わぬハプニングに身体が固まる。

 俺の混乱とは裏腹に、因葉先輩の顔は穏やかだ。

 目を逸らさないと、と思いながらもその幼さが見える横顔に釘付けになる。


 その時だった。

 彼女の目元から伝わる一雫が、はっきりと目に映ったのは。

 

「……やめて」

「因葉先輩?」

「いや、いや……きえないで。どこにもいかないで」


 ぼろぼろと溢れた涙がズボンを濡らす。


 苦痛に歪むその顔が悲しそうで。苦しそうで。

 何かしてあげたいと思ったから、その頭をそっと撫でる。

 家を出るときに泣いて引き止めてくる妹をあやしたように。


「大丈夫ですよ」


 自然と言葉が口から漏れていた。 

 俺は因葉先輩のことを詳しく知らない。

 俺よりも前にはなぶさ荘にいた、明るくて頼りになる上級生ってことぐらい。


 いつか、もっと知れる日が来るといいな。

 そんな思いも込めつつ撫でていると、やがて表情がゆっくりと解れていく。

 

「──月の雫を見つけ出して」


 その言葉を最後に、動きが止まった。

 少しして聞こえてくる寝息に、俺は安心して両手を縁側に預ける。

 皆既日食はもう終わり、あとはもう半分ほどの影が消えるのを待つだけになっていた。


「なんだったんだ、今の。大丈夫なのか……?」


 だいぶうなされていたみたいだけど。

 心配としていると、だいふくがとてとてと戻ってくる。

 白い毛玉は横たわる先輩の肩にひょいと乗ると、一つあくびをしてみせた。


「だいふく、お前のご主人様がなんか大変だったんだぞ」


 その呑気な仕草に、思わず抗議の意味を込めてもふり回す。

 けれどだいふくは気持ちよさそうに目を細めるだけだった。


 はははこやつめ、もちもちしおって。


「んぅ……?」

「おっと」


 そんなことをしていると因葉先輩が身じろぎする。

 慌ててだいふくを退ければ、目をこすりながらゆっくりと身体が持ち上がった。


「──ふわぁ」


 大きなあくびが一つ。

 寝起きでぼんやりとしていた瞳に光が灯り、俺を捉える。

 ぼろぼろと涙をこぼしていたその目は、月明かりの下でも分かるほど真っ赤に腫れていた。


「……」


 言葉に詰まる。


 それが彼女の見たであろう悪夢の壮絶さを表しているような気がした。

 数秒の沈黙。何も言わない俺にやがて彼女はこてんと首を傾げ、こう告げる。


「おまえ、だれ?」

「………………先輩?」

「センパイ? わたしの名前?」

「いや、えっと、先輩の名前は因葉なつ、ですよね?」

「いなば、なつ……たしかに、そんな気がする! おまえいいヤツだな!」


 ぱぁっと顔を明るくする因葉先輩。

 

 口調が。雰囲気が。

 それは今まで二週間話してきた彼女とは全く違う。

 

 ぞくりと、背筋を冷たい指になぞられた時のような薄寒さを感じた。


『ねぇ、心理テストしてもいい?』


 さっき聞いたばかりの質問が頭をよぎる。


 一個だけ残して明日全部の記憶が消えるとしたら、何を残す? 

 

 ──その刻限が明日じゃなかったのなら。

 ──もしその心理テストが、本当に現実で起こるものだったのなら。


 バカげた考えを否定しようとする。

 けれど目の前にいる因葉先輩は無邪気で、無防備で。


「それで、おまえの名前は? ここはどこ?」


 あまりにも、無知だった。


 

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