善界草の木霊
一人の女の子を取り合って喧嘩しようぜ。
————世界規模で。
「お前は、間違っているよ」
例えば。世界という名の銃があったとしよう。
弾倉の数は七七億八〇〇〇万。込められた弾丸はたった一発。一人ずつ、頭に銃口を押し当てていく全人類規模のロシアンルーレット。
「お前は間違えている。過程をじゃない、結論をでもない。全部。最初から全部、間違えてるよ」
拒否は許されない。逃避は認められない。
弾頭に詰まった炸薬は時限式。放たなければ、待っているのは暴発という名の破滅だけ。
「これが正しい、これが正解だ。これ以外の選択は全部間違ってる」
七七億七九九九万と九九九九の撃鉄を下ろして答えを得る。
どうやら、この世界に彼女という存在は不要らしい。
ならば残る命題は簡単だ。
引鉄を引くか、否か。
そんなこと、考えるまでもなかった。
「だからそこを退いてくれよ————誰もが望む、明日のために」
宣告が落ちる。
そこに感情の挟まる隙間はない。そこに躊躇いの入る余地はない。なぜならそれは絶対的に正しい。たった一人の為に全人類が犠牲になるなどバカげている。倫理や道徳という綺麗事が通るほど、この世界は優しく作られてなどいない。
だから、男は正しい。
正しさを正しく主張するこの男こそが、『正義の味方』だ。
だけど。それでも。
「それだけか?」
一言。
溜息混じりに、少年はそう訊いた。
「……どういう意味だ」
「言い訳の用意は、もう済んだかって訊いてんだよ」
どうでも良さそうな声で、なんの感情も湧いていない目で。それが男の逆鱗に触れると分かっていて、なお踏み躙る。
返答はなかった。
ただ、ブツリ、と。口端を噛み切る音が響いた。
「だったら、」
赫怒の暴発は一瞬。
連続する暴虐は、もはや音に意味を与えない。ただ純粋な破壊を伴って、無数の爆炎が世界を蹂躙する。
大地は弾け飛んだ。
空気は焼け焦げた。
乱立していた樹木は燃えることすら許されず、衝撃の余波だけで塵と化す。
一秒とかからず世界を絶命で染め上げた男は、
「だったら、どうしろと言う!」
それでも、噴煙を睨み据える。
薄れゆく噴煙の先で、少年は何事もなかったかのように立っていた。
「助けたかった!救いたかった!誰も泣かない未来を作りたかった!!」
咆吼と爆炎は交互。
叩きつけるように、八つ当たるように。あるいは————縋り付くように。
「だけどそんなの無理だった!そんなことは許されなかった!クソッタレなこの世界はそんなことすら許してくれなかった!!」
咆吼。爆炎。咆吼。爆炎。咆吼。爆炎。
本当に怒りだったのか。本当は慟哭だったのか。
そんなこと、もうきっと男自身にだって分かっていなかった。そんなことも分からなくなるほど、きっと男はあらゆるものに裏切られてきた。
「だったら仕方がないだろう!もう認めるしかないだろう!どっちを選んだって誰もが笑える世界がないのなら!どっちを選んだって犠牲のない結末がないのなら!!……そんなのはもう考えるまでもない。たった一人の犠牲で他の皆が助かるのなら、それが正しいんだって納得するしかないだろうがッッッ!」
その答えに行き着くまで、一体どれほどの物を失ってきたのか。その諦観に至るまでに、一体どれほどの物を捨て去ってきたのか。
少年には理解出来た。世界の誰もが理解できなかったとしても、少年だけは。
だからこそ、
「……笑わせるなよ、ペテン師」
嘲笑う。
無限に続く爆発の連鎖の中で、それでも否定を突き立てる。
「無理だった。許されなかった。犠牲のない未来なんてどこにもなかった。————それで、自分を偽る理由は十分か?」
「————ッ!」
今度の激発は、もはや言葉すらなかった。
ただ、その怒りの大きさを表すように。極大の破壊が焼き尽くす。
大地を、空気を、世界を屠りながら一直線に少年へ迫るそれは、いっそ作り物じみた空虚さえ感じさせる。それほどに、理解が及ばないほどに————絶対的な力。
だが。
少年は、その場を動かない。
届けば破滅。それを正しく把握してなお、退くことはない。
ただの、一歩も。
「『世界は——」
右手をかざす。焦熱を孕んだ風が肌を灼いた。
認識する。この手は今、風に触れている。風という、流れる『空気』に触れている。
描く。脳裏に一振。固く、硬く、堅く、何物をも貫く剥き身の刃を突き立てる。
見据える。爆炎は目前。渦巻く破壊を超克しうる道筋を構築する。
「——この手に』」
到達————直前。
少年は拳を握る。
その手に掴まれるのは簡素な柄。
一度、握りつぶすように力を籠め、
「————————————ッッッッ!!!!」
席巻。
衝撃で刃が砕けた。熱波で剣先が溶けた。分かっている、たかが刃二本で無間の地獄は越えられない。
だからこその、異能。
砕け折れるより早く。溶け落ちるより迅く。手には常に新たな柄が握られている。
一〇の爆撃を一〇〇の剣戟を以て打ち崩す。隙間の無い殺界に、一人分の領域を斬り拓く。
護り切れ。読み切れ。断ち切れ。
此処より一歩でも後ろに生きる価値などもう捨てた―———!
「……無理だとしても、許されないとしても」
永遠だったか、一瞬だったか。それを問うことに意味はない。
ただ、無数の死を斬り抜けた少年はそう呟いた。
「犠牲のない未来なんかどこにもなかったとしても。それでも、俺の選ぶものはもう決まってる」
引鉄を引かない選択は認められない。彼女が救われる未来など許されない。そんなことは百も承知。
七七億八〇〇〇万と、一。どちらを選ぶのが『正しい』のかなど、言われずとも分かりきっている。
だが。もしも。
もしもその一が————たった一人、愛した少女であったとしたら。
「正しさも間違いも知ったことか。くだらない二元論なんか興味もない」
その上で、あえて同じ質問をもう一度繰り返そう。
引鉄を引くか、否か。
少女を殺すのか、否か。
彼女を殺して得た未来などに、自分は本当に縋り付きたいのか。
「舐めるな、正義の味方」
どちらを選ぶべきか、ではなく。
どちらを選びたいのかを考えたとしたら。
「俺の願いは、立場ごときで左右されるような軽いもんじゃねえんだよ!」
選択は、自ずと一つに絞られる。
「……いいだろう」
男は短く応じた。
全てを救おうと足掻いて、足掻いて、足掻いて。その理想に終止符を打たれてなお、多くの救いを求めたその声で。
ただ、告げる。
「それなら————殺すぞ。利己主義者」
「やってみろよ、偽善者」
これはそう言う戦いだ。
意味などいらない。希望はない。
負けて失うものは何も無く、勝って得られるものは納得という二文字だけ。
————結論は得た。
ならば、言葉はもはや打ち棄てよう。
変えられない過去は振り切った。
見据えられない未来は捨て去った。
世界が彼女を排斥するのならば。
その全てに背を向けてでも、現在を繋ぎ止めよう。
背負う覚悟は既にある。
全を捨ててでも。
ただ一を選ぶとそう決めた。
その選択が間違っていることなど理解している。
その傲慢が間違っていることなど理解している。
だからこそ。
————さあ、足掻け。
間違っていることは、決して悪ではないのだと証明する、そのために。





