自身の選択
「おはよう、お姉ちゃんたち」
ノアをこの家に運んでから三日が経った。ノアは常々帰らなきゃと口にしていたが、体がよくなるまではと宥めすかしながら、なんとか居てもらっている。再三、ずっとここにいてもいいと伝えてはいるのだが、ノアはその質問にはただ困った顔で微笑むのみであった。
「おはよう、ノアちゃん」
朝食作りを手伝ってくれていたエリスが、寝室より出てきたノアに優しく微笑む。
「おはよう。もう、朝ご飯はできてるよ」
俺は作った朝食をノアにみせる。この三日間、ノアのために用意した朝食はそれはもう豪勢なものになった。ハムやチーズを挟んだ白パンのサンドイッチや、スクランブルエッグ、コンソメのスープなど前世にも劣らぬご機嫌な朝食だ。
「うわあ、凄い。今日もご馳走だね」
「遠慮せず、じゃんじゃん食べてね」
ノアはその言葉に一瞬パアッと顔を輝かせるが、その後すぐ浮かない様子で曖昧な笑顔へと変わってしまう。きっと、エマのことを想っているのだろう。ガイというグループのリーダーの女なら食べるものには困っていないだろうが、これ程の料理は食べたことはないに違いない。
行商をしているフィーネさんの伝手で、調味料や素材には事欠かない。レストラン経営も手伝っていることから、そこで余った食材なんかも貰うことができるのだ。
「おっ、飯ができたか」
スタンがアレクと共に降りてくる。二人は早朝の訓練とやらでこの寒い冬にもかかわらず、外に出ていたのだ。子供というのは本当に大したものだと思う。
スタンも時折アレクと一緒に訓練することがある。やはり、相手がいると捗るらしい。スタンも案外付き合いがよく、アレクの相手をしていた。
「じゃあ、皆揃ったし食べようか」
皆でテーブルを囲み、いただきますと手を合わせる。ノアもおずおずとだが、それに倣う。この三日間でだいぶウチにも慣れたようだ。遠慮しすぎるきらいがあるが、ノアはとてもいい子だし、皆とも一緒にやっていけるだろう。
皆が朝食に口をつけたのを確認したノアも、スクランブルエッグをパクりと口にし、目を見開く。半熟具合が絶妙で、今日の出来はとてもよかったからな。
しかし、子供が美味しそうにご飯を食べている姿って、なんか未来というものを感じさせてくれる。おっさんになってからは眩しくて直視できなかったが、転生した今では素直にそう思えるようになった。
朝食を終えた後は、すっかり熱も下がったノアの入浴だ。体はキレイに拭いていたし、服も取り替えてはいるからキレイだが、暖かい湯に入ることは健康にもいい。
「ねえ、ここにお風呂なんてあるの?」
ノアが不思議そうに聞く。まあ、スラムではよくて水浴びぐらいしかできないから、疑問に思うのも無理はない。
「あるよ、ほら」
浴室のドアを開けると、途端に湯気の熱気が吹き付けてくる。ここにノアを連れてくる直前に、魔法で用意しておいたのだ。
浴室にはフィーネさんから購入した木桶や椅子なども揃えており、浴室として恥ずかしくないものとなっている。健康ランド愛好家として、浴室のアメニティは妥協しない。
「うわあ」
ノアが驚きに目を丸くする。
「凄い! お風呂なんて、ばあやにいれてもらってたとき以来だ!」
ばあやというのは、家政婦さんかなにかだろうか。だとすると、ノアは結構いいところの子供だったのだろう。どことなく品があるように感じられるのも、そういったことが関係してるのかもしれない。
「入ってもいい?」
ノアが目を輝かせて、そう尋ねてくる。そこには子供らしい気安さも感じられ、少しばかりホッとする。大丈夫と伝えるといそいそと服を脱ぎ、瞬く間に全裸となる。
その染み一つない肌を眺める。最初、ここに来たとき体を清めるために服を脱がした際には、いたるところに虐待を示す痣があり、俺たちを絶句させた。
エリスが憤りながら、すぐさま癒しの奇跡を行なったため、その痣はいまはない。だが、それを見たとき俺たちは、ノアを奴らには渡さないという決意をより強固なものにした。
「おおー」
ノアはチャプチャプと浴槽の湯を楽しそうに手でかき混ぜる。湯の温かさに感動しているようだ。木桶に湯を汲み入れ、ノアの足にそっとかけてやる。
「あったかい‼」
「じゃあ、頭を洗うよ。目を閉じてて」
「うん」
ギユッと目をつむり、両耳を押さえたノアの頭に湯をかける。髪だけは洗うことは難しいので、ゴワゴワしていたので丹念に洗うことにした。
いまだ完全とはいかないが、ほぼ完成している清潔保持のための液体を木筒から手に取り、ノアのくすんだ灰色の髪を洗う。髪の汚れが泡を黒く染める。あまり清潔に気を使ってもらえていなかったのだろう。
髪の毛もそうだ。乱雑に切り揃えられている。ボウズにされなかっただけマシだが、それは奴らに上質な剃刀がなかっただけだと思える。
一度洗い流すと、次は酢を使って髪を洗う。中坊のとき、サラサラヘアーに憧れ調べたときに効くと聞いて試してみたのだ。結果としてサラサラヘアーは手に入らなかったが、存外悪くない感触で、シャンプーに劣らぬ性能であると感じた。なんでも、昔の人は石鹸と酢で髪を洗っていたのだとか。
「うん、上出来かな」
洗い流すと、針金だったような髪はふんわりと上等に仕上がっている。髪色もまたくすんだ灰色でなく、輝きを放つアッシュブロンドとなった。
「次は体を洗うね」
痩せ細ったその体を、ヘチマタワシのようなスポンジで洗っていく。これはフィーネさんのおすすめで購入したものだ。なんでも植物を乾燥させたものらしく、この国の庶民も体を洗うのはこれらしい。柔らかくソフトリーな上質なスポンジといった感じだ。
「あはっ、くすぐったいかも」
笑いながらノアは身をよじる。その体は痩せているが、この三日間で大分子供らしい丸みを取り戻した。子供というのは、何事も貪欲に吸収していく。
「ざぶーん」
体を洗い終えたノアを浴槽へとつける。ノアは陽気に声をあげ、湯船へと飛び込んだ。
「ふいー」
そして、子供らしかぬ声をあげる。でも、俺も子供の頃から風呂が好きで、祖父に銭湯にもよく連れていってもらったから、気持ちはよくわかる。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん、なあに」
「すっごく気持ちいいよ」
「そっか、よかった」
温かいご飯やお風呂、安らげる場所さえあれば人は満ちたり得るのだ。ノアの笑顔を見て、そう思う。だが、それが万人の得られるものではないのは、なぜなのだろう。
前世は諦めと割りきりでなんとか乗り越えたが、今の俺はそうした思考が常に脳裏を巡ってしまう。転生当初はそうではなかった。多くの出会いのせいで、俺の人間強度は下がってきている。でも、もう戻ることはできないだろう。
目を閉じながら、幸せそうに歌を口ずさむノアを見ながら、俺はそれが自身にとってプラスなのかマイナスなのかを、ずっと頭の片隅で考えていた。




