ずっと一緒に
ばあやは結局迎えにはこなかった。
あれから三日がたったが、起きた変化と言えば、お腹が空いたことぐらいだ。
「本当にお腹減った……」
その間、近くにある井戸の水しか口にできていない。空腹を訴えたお腹は絶えずグーグーと鳴っている。食べ物が食べられる場所がないか探そうとも考えたが、その間にばあやが迎えにきてしまったらと思うとこの場を動くことはできなかった。
お腹が空くと気分も落ち込む。でも、常に笑っていろとばあやのいいつけがあるから、俯くわけにはいかない。こんなときには……。
「よし、歌おう」
歌は大好きだ。特にママが部屋にこもり、一人で歌を歌っているのを聞くのが好きであった。真似して歌ったところ、滅多に褒めてくれないママが「へえ、やるじゃない」と意外そうな顔で褒めてくれた時は本当に嬉しかった。
ママの歌を思い出す。とても綺麗な声だった。よく、隣の部屋でじっとそれを聞いていたため、ママの歌っていた歌は自然に覚えていた。どんな歌にしようか、こんなときはやっぱり明るい歌がいいな。
脳裏にママの歌を思い浮かべながら、自然に歌が体から零れ出す。その歌劇の歌は貧民街に落ちた乙女が、それでも希望を捨てずに前を向くシーンで使われていたのだが、そんなことは知る由もない。だが、明るいその歌はどこまでも心に残り、今もこうして口ずさむことができる。
歌い終えた後、幸せの余韻が胸におしよせる。空腹こそ紛れなかったものの、気分は晴れ晴れとし、陰鬱だった気分もいつしか消え失せている。
「ブラボー」
大きく息を吐き、一息ついているとパチパチと拍手が鳴り響く。
「えっ⁉」
驚いて、拍手のする方をみると、そこには一人の少女がいた。大きな瞳を輝かせ、パチパチと必死に手を叩いている。ふくよかな体つきで整った顔立ちをしている。もしかしたら、ママと同じぐらい美人かもしれない。
「いやあ、まさかこんなところでこんな凄いのが聞けるなんて思わなかった。天才少女ってやつね!」
「えっ⁉ あの……」
唐突に称賛され、ただ戸惑うしかできない。少女はそんな自分を見かねたのか、軽く舌を出してペコリと頭を下げる。
「ああ、ごめんね勝手に盛り上がっちゃって。でも、あなたの歌本当に素敵だった。私はエマ、あなたのお名前はなんていうの?」
「え、ええっと、ノアの名前はノアだよ」
「そう、ノア。素敵な名前ね。可愛らしいわねっ!」
エマと名乗る女性は、自分をべた褒めしてくれる。ママは自分にとても厳しいし、ばあやはいつもしかめっ面だから、そういう風に持て囃してくれるというのは何気に初めてのことで、恥ずかしいと思いつつも、胸の奥がじんわりと暖かくなった。
「ええっと、もっといろんな歌を歌えるけど……」
「ホント⁉ じゃあ、歌ってみせてよ。私、結構明るい歌も好きだけど、悲劇の歌も嫌いじゃないの」
「じゃあ……」
そうしてしばらく、エマの為に覚えている色々な歌を歌う。
「うん、凄いっ! ブラボー、ブラボー。ノアは将来、歌姫になれるよ」
「……ノアのママは歌劇歌手だったの」
「そっかあ。じゃあ、ノアの歌の才能はお母さん譲りだったんだね。……ねえ、ノア。ノアはなんでここにいるの?」
途中までは底抜けに明るく振る舞っていたエマが、唐突に真顔となって聞いてくる。ノアは、そんなエマに自分の状況を洗いざらい話した。エマは真剣に自分の話を聞いてくれ、それが終わると大きく溜息をついた。
「はあ、それって絶対に捨てられたんだよ。もう三日もここで待ってるなんて、ノアは健気すぎだよ」
「そうかな?」
「そうだよ。普通はそんなに待てないよ。ノアは凄いね」
率直に自分を褒めてくれるエマの言葉はとても心地よい。
「えへへ。よく、ばあやはノアが頭が足りないからって言ってたけど」
「それは違うよ。どんなに頭が良くても心根が腐ってたら意味はないわ。その点、ノアは人との約束をどこまでも大事にする。誰にでもできることじゃないよ」
エマはそう言うと、自分に近寄り、そしてギュッと抱きしめてくれた。
「でも、それじゃあ飢え死にしちゃうよ。ノアは、きっと捨てられたんだよ。ここではご飯を勝手にくれる人なんていないよ」
「そうなの?」
確かにこのままご飯が食べられなかったら困る。自分はどうすればいいのだろうか。
「ねえ、ノア。私と一緒に行きましょうよ。私も孤児院に住んでたんだけど、そこの院長の爺に手籠めにされそうになって一週間前に逃げてきたの。最初は不安だったけど、神殿の人たちとか炊き出ししてくれててなんとかなりそうな感じ。一人だと心細いし、私妹が前から欲しかったんだ。どうかな?」
そう話すエマの笑顔はどことなく寂しそうだった。ばあやが来ないかはいまだ気掛かりではあるが、さすがに腹ペコは限界に近い。気付くとその誘いに自然と頷いていた。
「わかった。ノア、エマと一緒に行く」
「ホントにっ! 嬉しいわ。私のことはじゃあエマ姉って呼んで。孤児院ではそう呼ばれてたわ」
「わかった、エマ姉っ!」
「ん~、可愛いっ!」
また、エマ姉は自分を抱きしめてくれる。その胸の中はとても温かく安心できた。
「じゃあ、これからは私たちは家族よ。一緒に幸せになりましょうね。大丈夫。私が好きな本では貧民街に住んでる主人公の女性がくじけないで頑張って、そんな明るい主人公は王子様の心も射止めるの。諦めないで頑張ればきっとなんとかなるわ」
エマ姉はノアの言葉に頷くと、小指を差し出してきた。
「じゃあ、最後に約束の儀式よ。これはこの世界を最初に統べた偉い皇帝様がそのお妃さまたちにしたっていう、由緒正しき約束の儀式なのよ」
「へえ~」
「あなたの小指を私の小指に絡ませて」
ノアはエマの言う通りに小指を絡ませる。
「それじゃあ、いくわね。指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指きった」
小指を絡ませた手を振ると、エマ姉は優しく微笑む。
「これで私たちはずっと一緒よ」
「うん」
ノアには今の儀式はよくわからなかったが、それでも特別で大事なことだとは理解できた。エマ姉に笑顔で頷きながら、ノアはいましがたの約束を胸の中で反芻した。ずっと、ずっとエマ姉と一緒にいようという想いと共に。
「クシュン」
朝の強い冷気の中で、ノアは目を覚ました。目覚めたのはノアに与えられた寝床である。そこは物置として使われており、周囲には誰もいない。寝床は薄い布が一つ敷かれているだけで、かけるための寝藁も与えられてはいない。固まってしまった四肢の関節をほぐすようにゴロリと寝返りをうち、手足を伸ばす。
「いい夢、だったのかな?」
夢とはいえ、抱きしめられたあの温かさの余韻がいまも残っている。久しく与えられていないあの温もり。今それを与えられているのは自分ではなく、ガイなのだ。あの時、自分を救ってくれた温もりが、もはや手の届かない場所にあることを想い、チクリと胸が痛んだ。
「朝ご飯の支度をしなきゃ」
ノアに与えられた仕事は多い。さぼれば体罰が待っているだろう。寒さで固まった体をなんとか動かしつつ、ノアは一日の労役へと赴くのだった。




