戸籍がほしい
「そういえば、あの件ってどうなりました」
俺はフィーネさんに依頼した最大の懸念事項を尋ねることにした。それが何かというとズバリ戸籍だ。一年に一度登記が確認され、手続きがないと抹消されてしまうということを、俺は街に住みたいとフィーネさんに訴えた際に聞かされたのだ。
故にスラムの住人には戸籍というものがない。一度入り込むと、もう王都には戻ることは事実上できなくなるという制度だ。スラムの住人はアウトカーストって立場によく似ている。王都は日々人口が増え続けており、脱落した余剰人員が絶えずここへと流れ込んでいるという。
そんな中で、街に戻れる手段も非合法ながら存在する。それが戸籍の売買だ。元来違法なのだが、黙認されているやり取りらしい。それに必要なのは莫大な金と保証人。俺はフィーネさんとのビジネスでそれなり稼いでいるから昨今、金は問題にならなくなるだろう。だから、その時のために保証人となってくれる人物をあらかじめ確保したいとフィーネさんに依頼を行なっていた。
「ああ、戸籍の件ね。今、引き続き保証人となってくれる人たちを探しているわ」
フィーネさんも俺の声の調子から、何を訴えたいのか察したのだろう。頷きながら、そう答えてくれる。
「本来なら私が保証人になってあげたいんだけど、そうすると絶対あの男にリコの存在が気取られてしまうから……」
フィーネさんが申し訳なさそうにそう言う。
「そうだなあ。アイツ、今もコソコソと嗅ぎまわってるし、リコのことがバレたら絶対誘拐とかしてくるだろうからなあ」
シャーリーが、事も無げにそんな物騒なことを呟く。フィーネがその言葉を窘めるかのように目つきを厳しくし、周囲を見回した。幸いにして既にここにはヨハンとメイ以外の者は退けられいた。他言するなどということはないだろう。
「安心してね。ここはしっかりと索敵の魔法が施されてるし、危ない人たちも近づいていないから」
「わかりました。でも、誘拐って……」
アレクがその物騒な言葉に眉をしかめる。シャーリーはそんなアレクに、狼のごとく犬歯をむき出しにして、食べちゃうぞとばかりに両手を構えてみせる。
「フィーネの親父さんはヤベエやつなんだよ。バッソア商会って聞いたことあるか?」
「バッソア……。義父から聞いたことがあります。なんでもこの国一番の商人とか」
「ええ。この国のありとあらゆる商取引を牛耳ってる男よ。……でも、私はあの男を商人とは認めないけどね」
フィーネさんが苦々し気に、そう吐き捨てる。
「王族や大貴族だけに取り入り、飢饉の際には糧食を買い占める。そんな男よ。それだけならまだしも、この国最大の犯罪組織、暗黒街の六剣にまで取り入り、麻薬の取引にまで手を染めている外道……。私はアイツを父とは認めない」
フィーネさんは余程怒りを感じているのか、ギリリと歯を食いしばる。聞いただけでも、フィーネさんの親父さんとやらがかなりヤバイ人物とは解る。この国最大の大企業でかつ、国すら揺るがす犯罪組織ともツーカーなんてヤバすぎだろう。
うーん、でもまた暗黒街や六剣か。スラムに住んでいるけど、そんなにソイツラの影響を感じたことはないんだよなあ。まあ、影の実力者ってそんなものなんだろうけど、末端過ぎる俺たちには与り知らぬ存在ではある。近づけば近づくほどヤバいのだろう。でも、近づけない程俺たちは底辺ではあるけど。
「そんなわけで、私自身が保証人になってあげることはできないの。ごめんなさいね。それに最近はその戸籍の買い取りすら国は厳しく取り締まってるわ。値段も大分高騰してしまっている。それこそ、王都の外にでも逃げ出したほうが手っ取り早いぐらいよ」
マジかあ。以前フィーネさんに戸籍の値段を聞いたけど、その額には絶句した。王都の外かあ、そういうのもありなのかなあ。小さな平穏な田舎で、アレクやエリス、スタンとのんびり暮らしつつ、俺の能力でしっかりと育てていく。そういうのもアリといっちゃあアリだな。
「でも、リコは私の大事なビジネスパートナーだからね。あの男の毒牙にかかりそうなら、私が全力で護るわ。だから、安心してね」
「おう、あたしたちが護ってやるから安心しろ」
フィーネさんが微笑み、シャーリーはドンと己の胸を叩いてみせる。A級冒険者の二人にそう断言されると安心感はハンパねえ。俺が取りうる最大の保身としては、この人たちに取り入り、前世での知識で商品開発を行い蓄財し、スラム出身というハンディキャップを覆すことだ。それで問題はないはずだ。
「それに、リコのお陰でそろそろ私も店を持てそうよ。だから、今まで以上にリコに便宜だって図ってあげられると思う。……そういえば、リコの言っていたあの商品の開発状況はどうなのかしら?」
「ああ、あれはですねえ」
俺はフィーネさんに豪語した知識チートの商品の進捗状況に想いを馳せる。あれは今少し難航しているのだ。灰汁や油で大分使えるようにはなったのだが、何故か固まらない。最後の1ピースがはまらないのだ。
「まあ、今も十分リコの恩恵は受けてるから、焦らなくていいわ。今のままでもおつりが来るほどですもの」
フィーネさんが優しくそう言ってくれる。だが、俺としては一日も早く、うちの子たちにまっとうな環境を用意してあげたいのだ。だから、引き続きこの商品は開発していかねばならないだろう。俺はそう固く決意した。
「それじゃあ、気を付けてね」
試食会と商談を終え、俺たちは帰路につこうとしていた。フィーネさんや、シャーリー、ヨハン、メイがレストラン前で見送ってくれる。陽は大分落ちかけていたが、それでも家に着くまでには陽は落ちないだろう。それに、俺たちには魔法もあるし大丈夫だけど。
腕の中にはヨハンさんが持たせてくれた試作品お菓子もある。中身はシュークリームだ。まだ食べてはいないものの、見た目上は俺の提言どおり、いやそれ以上のクオリティで仕上げてくれているっぽい。食べるのが楽しみだ。
「今日はありがとうございました」
俺たちはこの素晴らしい試食会を開いてくれたフィーネさん達にお礼を述べ、帰路へとつく。
「いやあ、美味かったなあ」
「ああ、デミグラスハンバーグ……。新たな可能性を思い知らされた」
アレクとスタンは試食会の余韻を噛み締めているのだろう。満足気に意見を述べる。だが、エリスは少し浮かない様子だ。俺は気になって声を掛けることにした。
「どうしたのエリス。お腹でも痛いの?」
「ううん、違うよ。大丈夫……」
エリスはそれでも思いつめた表情で、俺に言葉を振り絞ってくる。
「ねえ、お姉ちゃん……。私たちが戸籍を手に入れたら、セティちゃんたちとはお別れになっちゃうの?」
エリスが心配そうにそう俺へと訴える。エリスはスラムの皆に帰属意識を持っているのだろう。故にあの劣悪なスラムから離れることに罪悪感を抱いてしまっているようだ。
「違うよ。もしスラムから離れられても、モーラやセティには会いにいけるでしょ。お別れなんてことは絶対にないから」
「……そっか、そうだよね」
まだ、釈然としない様子だが、エリスはなんとか頷いた。富めるものからまず富む。トリクルダウンってやつだ。きっと俺は間違えてない。そう間違えてないはずだ。そう思いながら、試食会の余韻を楽しむ弟たちや、少し浮かない妹と共に帰路へとついた。




