花売りの少女
ジェニーはアストリアの王都に住み、雑貨屋を営んでいる女だ。17歳の時、病気となった叔母の事業を受け継ぎ40年が経とうとしていた。既に夫は他界し、一人娘はこの前嫁いだため気楽この上ない身上であった。
幼い頃より敬虔な大地母神の信徒であったジェニーは、慈善活動に余念がない。娘が嫁いだ今では精力的に活動へ打ち込み、加護持ちでないにもかかわらず指導員として加護を受けた子たちの教育を任されるまでに信頼されていた。そんなジェニーは今日の休日を珍しく自分のためだけに使い、午前中は買い物や友人との会合に費やし満喫していた。その帰り道で――
「お花ー、お花買ってくださいなのー」
通りから、舌足らずな声で必死に花を売ろうとしている少女の声が聞こえた。いや、この声からすると少女よりも幼女という方が相応しい年齢だろう。
古来、花売りには花だけでなく自らの身を売るという隠喩も含まれている。だが、まだ日が高く昇っているこの時間に花を売るのは、そういった意味合いではない純然な花売りなのだろう。スラム街で稼ぐ能力のない女児が、よくやらされる物乞いの手法だ。売っている花も花弁こそあるものの、ほぼ雑草に等しい代物。しかし、信心深いジェニーは極力こういった花を買ってやっている。将来、少女たちが己の体を売り物にしなくてもよいようにと祈りを込めながら。だが、今日は――
(駄目よ、ジェニー。今日は一日全部自分のために費やすと決めたんだから)
善良な心が疼くも、老年に差し掛かった体は休息を欲している。その精励ぶりを賞賛されると同時に、大地母神の司祭に自身の体調について少しは振り返るようにと苦言を呈されたばかりだ。
しかも花売りにしては随分と人だかりができているし、あれなら自分が行かなくても大丈夫だろう。だが、そんな思いとは裏腹にチラリと花売りの少女へ視線を向けたジェニーは、少女の容姿を見て絶句した。
(こんな、こんなことって……!)
そこには妖精がいた。絹のような銀色の美しき髪が、春の穏やかな風に揺られて粒子を放つ。白磁のように白く艶やかな肌が光を反射し輝いていた。すこし汚れているワンピースを着ているが、それもまた彼女の清らかさを一段と強調させている。細長い手足を翻しながら儚げな肢体を振り向かせた少女と瞳が合った瞬間、ジェニーの心臓は跳ね上がった。
アメジストのような紫紺の瞳。それはどこまでも深く、ジェニーの内面までも見透かすような深さを湛えていた。少女は世間の穢れや醜さなど一切知らないのだろう。鮮やかな桃色の唇をあどけなく開いていた。その少女の美しさに惹かれたのか通行人達はこぞって花を買い、中には果物やお菓子をあげている者もいる。
ジェニーは大地母神の教えから、生きとし生けるもの全てを容姿で差別しまいと頑なに自分を戒めてきた。しかし少女を見た瞬間、足は自然に少女の下へと赴いていた。間近で見ると、更に少女の美しさは際立ってみえる。
「……ね、ねえ、お嬢ちゃん」
「んー? お花、買ってくれるのー?」
スラムにいるせいか、少女の知性は外見の年齢に比べて低く感じる。しかしジェニーには、それが少女の純真無垢さをより一層際立たせているように感じた。少女と眼を合わせて会話を交わした途端、心臓が激しく鼓動を打ち始めてしまう。心の平穏をモットーとする大地母神の教えを第一にしてきた彼女にとって、それは初めてに等しい経験。
(おかしいわ、これじゃまるで私がこの子に……。いえっ、これは母性よッ! こんなに美しいのに憐れな子をみて、こうならない大人なんていないわっ‼)
ジェニーは唾を懸命に飲み込むと、顔面の筋肉を総動員して極上の笑顔を作り上げる。その気分はまさに大地母神像であった。
「お、お嬢ちゃんはなんでこんなところで花を売っているのかしら」
もしかしたら、スラムのギャングに入って酷い目に遭わされているのかもしれない。もしそうなら、早急にお救いして差し上げねばならないだろう。
「ママが病気なのー。だからお花いっぱい売って、ママに美味しいものを食べさせてあげたいのー」
ウルウルとした瞳でジェニーを見上げる少女。その理由を聞きながら穢れなき瞳をみた瞬間、ジェニーの涙腺と理性が崩壊してピュッと涙が溢れ出す。その勢いは水鉄砲のごとく噴き出し、それを突然かけられた少女は驚き「うおっ、まじかっ⁉」と美少女にあるまじき表情と声をさらしたのだが、涙が邪魔をしてジェニーに少女の表情は見えなかったし、蒸発した理性では少女の発した声だと判別することもできなかった。
このご時世に、これほど穢れなき美少女がいるだなんて。大地母神の教え通り、この世界に聖女として生まれてくるべき天使は存在するのだ。この穢れなき天使を、一刻もはやく保護して俗世から隔離しなければ!
「ねえ、天使ちゃん! 今すぐ私と一緒に神殿へ行きましょう! あなたが住むにはココは汚れすぎているわっ。お母さんも後で連れてくるから大丈夫よ! さあっ、はやく行きましょうっ‼」
呆然とする少女の手をガシッと掴み、ジェニーは神殿へと急いで足を運ぼうとする。だが、少女はダンッと地面を踏みしめると、その手を勢いよく振り払う。
「あっ⁉ どうしてっ!」
「ママが知らない人にはついていったら駄目だって言ってるのー‼」
そう言いながら脱兎のように逃げ出していく天使。それを必死に追おうとしたジェニーは、周囲にいた者たちから「落ち着けっ」と羽交い絞めにされてしまう。ハッと我に返った彼女は周囲の侮蔑がこもった視線に気がつくと、コホンと咳払いを一つして足早にその場から立ち去る。……だが、その最中も頭の中は先程出会った少女のことでいっぱいだった。
今日の出来事はまさに天啓であった。日頃の行いを認めてくれた大地母神が自分にくれたご褒美であると、既にジェニーは信じて疑わない。
(気高き愛は衆目に理解されぬもの。そうですよね、主よ。……今日は逃げられてしまったけど、ここにくればまた会う機会は必ずあるでしょう)
その甘い時を空想しながら、ジェニーはムフフと笑みを浮かべて帰路につく。きっと、次こそ少女は自分の愛を受け入れてくれるに違いないと信じて。
余談であるが、大地母神の神殿では加護持ち以外の神官にも活躍してもらおうと改革派が働きかけており、その第一候補として精励ぶりが称賛されるジェニーがあげられていた。しかし彼女は、ある日を境にしてとある美少女へと執着するようになってしまう。その結果、別の女性が任じられることとなる。これは神殿史に残る重大な出来事として後世の歴史書などにも載るのだが、その候補にジェニーという女性がいた事実は当然ながら残らなかった。
だが、ジェニーの死後に部屋から銀髪の天使が画かれた絵画や、その銀髪の天使をお世話する私小説が大量に発見された。これらの作品はアウトサイダー・アートとして後世に名を残すことになるが、それはまた別の話である。
「あぶねー。なんか最後に、やばいのに捕まりそうになったなあ」
王都の路地裏へと逃げ込んだ俺は、あの女性が追ってきていないかを確認する。
「……ふう、少しやりすぎたかな。効率がいいとはいえ、やはりアニメ系幼女は少し危険だったか。自重せねば」
自分の容姿は時に、強烈なほど人を惹き付けてしまうということに改めて気付かされる。思い返せば、老若男女問わず是非ともウチに来ないかと追い回されたことが何度もあった。中には同じ場所にずっと張り込んで、自分のことを捜索する者もいたほどだ。これで、あの場所もしばらくは行けないだろう。そこそこ裕福で善良な人たちが多くて、中々いいスポットだったんだが。溜息をつきつつ、俺は手にしたずだ袋に目を向ける。
ずだ袋の中には花売りでもらった金や菓子に加え、果物などもズシッと重さを感じられるほどに入っている。結果は上々だった。9歳の少女一人ならば、しばらくは食うのに困らないほどの量がある。
「しかし、二年か」
自分の前世を思い出してから、それだけの時間が経っていた。リコも9歳になった。そして、俺は今もスラムにいる。最初の頃こそ少しばかりきつかったが、初めに出会ったホームレスの先生であるマルコの教えと偶然手にした魔法の力で、今では当初から想像していなかったほど衣食住に困らぬ生活を送れていた。
「さて、帰るか」
少しばかり時間は早いが、今日はちょっと疲れた。日中から快適な我が家でゆっくり過ごすのも乙なものだろう。どちらかというと俺は、前世からインドア派だったしね。ずだ袋を背負うと、俺はマイホームへと向かって歩き出した。




