約束したから
「どうして……」
声が少し震えてしまう。劣悪なる環境で、どうみても真面な待遇を得ていないのに、どうしてノアはこんな朗らかな笑顔で答えることができるのか。
前世ではニュースで虐待児のニュースを嫌というほど、見たことを思い出す。俺はあまりテレビは見ない人間だったが、両親が大のテレビ好きで朝から晩までリビングではテレビが映っていたので、嫌でも目に入ってきた。その哀れな境遇に人の良い老親は目を潤ませ、そんなことするぐらいなら家で引き取ってあげたのに、とよく言っていたものだ。
実際には、そんな子供は俺たち家族の目の前には現れなかったし、もしそうなっていたとしても様々な条件や法律で引き取るなんてことは難しかっただろう。
それに、何より俺たちは国の制度に不満を持ちながらも根底ではそれを信頼していたと思う。保護に成功した子供たちは、まがりなりにもちゃんとした施設に入れられ、ご飯も食べられて学校にも行けているはずだと。法や憲法といった社会のシステムが、それをしっかりと為してくれていると。
でも、そんなものが存在しないこのスラムでは、当然そんな庇護はしない。時折、色々な宗教施設や篤志の豪商などが炊き出しをしてくれるが、それも一時の飢えを癒す程度のものでしかない。そんな救われぬ環境で、それでもこの少女はどこまでも屈託なく笑う。俺は最初、それを虐待児特有の諦観的なものと思っていたが、今目の前でノアの笑顔をみて、それだけではないのではないかと感じた。
「どうしてって?」
ノアが俺を見上げながら、覗き込むようにまっすぐに俺の瞳を見据えてくる。ノアの夜空を思い出させるような漆黒の瞳はどこまでも無垢で、見ているだけで吸い込まれそうに感じてくるほどだ。
「ノアはあそこにいて辛くないの? ご飯も満足に食べさせてもらってないでしょ。叩かれてもいるよね? もしノアが家に来るならそんなことは無くなるんだよ。ご飯も毎日食べられて、暖かい服も着せてあげる。それにうちの子は誰もノアを叩かないよ」
「ご飯、毎日……⁉」
ノアはその言葉に瞳を輝かせ、ジュルッと涎を垂れ流す。だが、ふと我に返ると頭を勢いよくブンブンと横に振った。
「え、えっとノアは頭悪いし、何もできないからご飯は少なくてもいいよ」
両手をモジモジと絡ませながら、誘惑を振り切るようにノアは俺から顔をそむける。そこには、俺の勧誘には屈しないという強い意思を感じる。何故だろう? 何故、この子はあんなところに固執してしまうのか。
「そんなことないよ。最初は皆弱い。それでも、それでご飯を食べさせないって理由にはならない。家族ならそんな理由でご飯を食べさせないなんてことは絶対にしないよ」
貧しい時代なら、日本でも一家の大黒柱の家長はおかずが一、二品追加なんてこともあっただろう。だけど、ノアのそれは次元が違う。
「家族……」
ノアはその言葉にピクリと反応し、小さく口の中で呟いた。俺はその反応にいけると思い、さらに畳みかけることにした。
「そう、家族だよ。ただの集まりじゃない。この多くの人がいるなかで、互いに強い絆で結ばれるんだ互いに助け合って、そういやって生き」「なら、ノアにもいるよっ‼」
ノアが俺の言葉を遮りながら、興奮気味に身を乗り出してくる。俺はその反応に、少しばかりたじろいでしまう。瞳を輝かせながら言うノアを見て、俺はあのガイという男の在り様を思い浮かべ、困惑してしまう。
「えっ⁉ それってあのガイって男?」
「違うよっ! ノアの家族はエマ姉だよっ‼」
ノアが両の拳をぐっと握りしめ、興奮したように話す。
「エマ姉は凄いんだよっ‼ 優しくて美人なんだっ‼」
ノアはどうやらエマ姉とやらを慕っているらしい。前回いたケバケバしい女たちのどれかだろうか。だが、そうならあの時ノアが懐いている様子が一遍も見られなかったことは少し不可解だ。
「そうなの?」
「うんっ、ここに来てから少し体調を崩してからずっとお家にいて、お姉ちゃんは知らないだろうけど、ノアの初めての家族なんだよっ」
どうやら今までお目にかかったことのない女性らしい。だが、ノアが慕っているとはいえ、現状のノアの待遇は酷いと言わざるを得ない。そのエマという女性はいったいどういう女性なのだろうか。
「ノアはそのエマさんっていう女性が好きなんだね」
俺の言葉にノアは満面の笑顔で答える。
「うん、大好きっ‼ ノアの初めての家族なんだ! 最初はエマ姉とノアの二人だったんだ」
そうエマ姉とやらを語るノアは本当に嬉しそうだ。心からそのエマ姉とやらを信頼しているらしい。その女性のことを語るノアの瞳には一遍の曇りも見えない。
俺はその言葉を聞きながら忸怩とした想いを抱える。何故、これほどノアが慕う女性がいながら、その女性はノアをこのような現状に留め置いているのか。だが、それを指摘すればノアはどんなことを想うだろう?
「それにね! ノアとエマ姉は約束したんだよ」
「約束?」
「うん、二人でずっと一緒にいようって」
両手を広げて、その約束を誇るように曇り一つない笑顔を見せてくるノア。そこに嘘偽りを見出すことなど、きっと誰にもできないだろう。でも、ノアは今二人でと言った。当然、そこには他の者など含まれておらず、つまり今現在は――
「そう、素敵だね。ノアは今もエマ姉と仲良しなんだ。今も一番仲良しなんだよね?」
決して、意地悪でそういったわけではない。だが、知っておきたかった。この子をこんな笑顔にさせる約束をした女性が、今あのガイのグループでどういう立ち位置にいるのかということを。
「えっ? う、うんノアはエマ姉とは仲良しだよ。でも、エマ姉はガイと恋人同士だから。ガイはノアがエマ姉に近づくと汚いって怒るから」
ノアは笑顔を崩さない。でも、その笑顔には既に先ほどの天真爛漫さはない。ああ、やはりこの子の笑顔はそういうことなのだろう。俺の推測は半分間違えていたが、半分は合っていたのだ。おそらく、今のエマという女性と、この子の語るエマ姉はきっともう違ってしまっている。
「で、でもっ、今でもエマ姉はこっそりノアにご飯をくれたり、今でも優しいんだよっ」
表情が険しくなっていたのだろうか。ノアは両手を握りしめて、必死にエマを擁護しようとする。今の話を聞くに、どうやらまだノアを少しは気に掛けてくれているようだ。だが、それもいつまで続くかはわからない。
「あっ、見えてきたよ。あれがノアのお家だよっ」
話題を逸らすようにノアは俺に背を向けながら、前方を指さす。俺はノアの指差す家を見ながら、肩にかかる縄の鈍い痛みが一層と強くなるのを感じていた。




