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天眼の聖女 ~いつか導くSランク~  作者: 編理大河
銀髪小鬼と家出兄妹
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希望のなきエクソダス


 薄暗い道を、少年は妹の手を引き歩いていた。二人は無言のまま、ただ黙々とあてどもなく彷徨っている。そんな静寂を打ち破るように、グルルと低くうねるような音が響いた。それは少年の腹から響いた音であった。少年は恥ずかしさを誤魔化す様に妹へと振り返る。


「大丈夫?」

「うん。お腹すいちゃったね」


 困ったようにおっとりと微笑む妹の笑顔を見た少年は、まだ自分たちによく笑いかけてくれた頃の母の笑顔を思い出してしまう。あの頃は騎士であった父が生きており、母は父が仕事へ行っている間に家で料理を作ってくれていた。母の得意料理はシチューで、よく素材を仕込み昼間から煮込まれたその濃厚な味といったら――

 その味を思い出してしまい、少年の腹は再び盛大に音を鳴らす。家を出てからは、ここ数日まともに食べられていない。恥を忍んで炊き出しに並んだり、背に腹は代えられぬと民家に生えている果物を掠め取ったりもした。しかし、それだけで腹を満たすことなど不可能であった。


「ねえ、お兄ちゃん。おうちに戻る? 私なら大丈夫だから。私が謝ればきっと、あの人もお母さんも……」


 不安が顔に出てしまったのだろう。妹がそんなことを言ってくる。だが、少年はその言葉に決意を新たにすると、妹の手を引く。


「駄目だ」

「でも、このままだと……」

「それでも駄目だ」


 妹は豪商の家へ、メイドとして奉公に出されることとなっていた。まだ8歳と幼すぎる年齢だが、それをあの男に告げられたとき妹は快諾した。どのみち拒否など許されないと、それまでの経験から分かっていたからだ。そして、夜に眠れなかった少年が寝所である狭い物置から台所へ水を飲みに行く途中、あの男と母が話しているのを聞いてしまったのだ。




「ねえ、あなた。本当にあの子を奉公に出すの?」

「なんだ、今さらになって渋るのか? 一度は了承しただろうが」

「でも……」

「ああ。確かにお前が心配するとおり、あのガキは変態の玩具にされるかもしれないな。だが、それがどうしたっていうんだ? あの男の覚えさえ良くなれば、お前にもっと贅沢をさせてやれるんだぞ。見てくれのいい、あいつのことを凄く気に入ってたからな。猟奇話でもあるまいし、殺されることは絶対ないさ。案外、良縁が見つかるかも知れんぞ。……それに、お前には俺たちの子供がいるじゃないか」


 男は母の再婚相手だった。美人と評判であった母を見初め、商人として数年で成り上がった男が執拗にアプローチしてきたのだ。母は最初こそ父への操をたて、男からのアプローチを断り続けていた。しかし、子供の病気で金が要ると縋りついてきた親友の保証人になったところ、その親友がたちまち蒸発して多額の借金を背負ってしまった。それから生活苦で食べるのにも苦労するなか、再び差し伸べられた男の手を振り払うことはできなかったのだ。

 当初は仮面をかぶっていたが、母との間に子供ができると男は豹変した。自室から物置へと押し込められ、下女と同じものを台所で食べる生活へと変わったのだ。母も最初は男から庇ってくれていたが、その度に新しい子供と自分たちのどちらを選ぶか突きつけられ、少しずつ言い返せなくなっていった。


「でも、あの子たちも……」

「俺の子供ではない。……お前がどうしてもというなら、あいつらを連れて出ていけばいいさ。だが、俺の子供たちは渡さんぞ。それに俺を裏切るというのなら、元女房といえど金銭的な援助は一切しない。払ってやった借金を返せと言わないだけ、ありがたいだろう? だけど魔物が増えてるせいで不景気ななか、女の身一つで働けると思うなよ。最後は娼婦に身を落として、あの肥溜めのようなスラムに流れ着くのがオチだ」

「……ごめんなさい、わかったわ。あなたの言う通りにするから」

「それでいい、いいこだ。ああ、そういえば今度お前に着てもらいたいドレスがあるんだ。ほら、お前がこないだ見惚れていた例のドレスさ。宮中で評判の仕立て屋の弟子が……」


 男の母に対する執着心は本物であった。また、実子も溺愛していた。ただ、自分たちだけが男にとって異物なのだ。前夫との間に出来た自分たちが憎いのか、死んだ父を侮蔑しながら狂ったように少年を打擲した。それが始まると母は、そっと姿を消すようになった。男がもたらす贅沢や快楽にならされていった母は、もはや自分たちと目を合わすことすらしなくなったのだ。あまつさえ、娘を生贄のように差し出すことも躊躇わなくなってしまうとは……。

 その会話を聞いたとき、少年は歯を食いしばり、そして決意した。この家を出ようと。父が病で死ぬ前に、少年は父と約束したのだ。――必ず家族を護ると。


 


「僕が必ず護るから。だから、行こう」

「……うん」


 妹は少年の言葉に静かに頷いた。

 家を出た当初は父の友人に助けを求めた。だが、どこの家庭も子供二人を引き取る余裕はなく、孤児院に入ることを勧められた。それで孤児院の門を叩いたはいいが、数日してあの男の使いが迎えに来たのだ。豪商との約束もあるのだろう。どうやら、妹をよほど奉公に出したいらしい。その後、何とか逃げ延びて憲兵などに助けを求めてみたが、あの男へ再び引き渡されそうになったため大人に頼ることも諦めた。

 街の中では時折、あの男の寄越した手の者が自分たちを捜索していた。このままでは捕まってしまうかもしれないと危惧した少年は、妹を守るために街の人間ならだれもが忌避するスラムへと足を踏み入れるのだった。

 それにしても、と少年は思う。自分たちがまさか、ここへ逃げ込む羽目になるとは思わなかった。慈善活動にも熱心だった父に連れられて、神殿の炊き出しを手伝いに来たことはある。そこに集まるみすぼらしい者たちを疑問に思い尋ねると、父はただ困ったように人生というのは色々難しいのだとしか答えなかった。周囲の人々は彼らを可哀そうな人たちだと憐れむように言っていたが、今なら父が言いよどんだ理由もわかる。人は、何かが切っ掛けで容易く堕ちてしまうこともあるのだ。強く優しかった父は、そんな彼らを見下したくなかったのだろう。


「お兄ちゃん?」

「ん、ごめん」


 思い悩んでいたのだろうか。少年はいつしか足を止めてしまっていた。護るべき妹に心配をさせてしまったらしい。優しかった頃の母にそっくりな波打つ豊かなブロンドの髪と、彫刻のような美しい顔を眺めながら少年は力強く頷いてみせる。


「さあ、行こう。……さあて、鬼が出るか、蛇がでるか」


 かつて自分が好んだ絵本の主人公がよく言っていたセリフを呟く。その主人公は、己の境遇よりも未知なる世界の好奇心に敢然と胸を躍らせていた。しかし、今の少年には不安のみが胸に渦巻いていた。これから先、どこで寝泊まりをするのか、どうやって食べ物を手に入れるのか。そして何よりも、どうやって生きていけばいいのか。

 だが、逃げるわけにはいかなかった。かつて父と交わした約束と、妹の幸福。それらを考えると、俯くことすら許されないと思えてくる。亡き父との約束を、たった一人の家族である妹を、必ず護らねばならない。少年は唇をかみしめると、妹の手を引きながら腐臭漂うスラムの中へと進んでいった。


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