いいつけ
ガタンと強い振動に、少女は目を覚ました。薄暗く狭いこの場所がいったいどこか一瞬悩んだが、まだ日も昇らぬ早朝に、ばあやに促され家を出て馬車に乗り込んだことを思い出す。まだ眠り足りなかったため、馬車の強い揺れも気にせず眠りこけてしまったのだ。
「着いたよ。さあ、おりるんだ」
隣には自分を家から連れ出したばあやがいた。ずっと自分の面倒をみてくれている白髪の老婆だ。ばあやは馬車を降りるよう自分へと促してきた。
「うんっ、わかった‼」
少女は元気よく頷くと、馬車を元気よく飛び出す。まだ少し寒い冬の風がその肌を撫でる。
朝早く叩き起こされたのは辛いけど、馬車での遠出はわくわくした。よくプレゼントを持ってきてくれるパパは最近来ないし、あまり構ってくれないママも悪いことしてマオトコとやらと一緒にパパにセーサイされたらしく姿をみない。マオトコやセーサイが何なのかいまいちわからないが、きっと自分が悪いことをしたときのようにご飯なしでお部屋にでも閉じ込められているのだろう。なので、最近はとても退屈していたのだ。
「はあ、相変わらずお前は無駄に元気だねえ」
ばあやが続けて馬車から下りて、自分を見ながら溜息をつく。そんなばあやに笑いかけながら、少女は鼻をスンスンと嗅ぐ。なにかすえたような匂いが周囲から絶えずするのだ。建物もなんか黒ずんで汚れている。
「ねえ、ばあや。ここ臭いよ」
「そりゃそうさ。ここはスラムの入り口だからね」
ばあやは苦笑いしながら答える。スラムってなんだろうと考えていると、ばあやは急に真顔になり自分の顔をじっと見据えてきた。
「どうしたの?」
怪訝に思い、少女は尋ねる。ばあやはとても厳しくいつもしかめっ面で溜息をついているが、今はそれだけでなくとても悲しそうに見えるのだ。
「はあ、お前さんも不憫な子だね。あんな馬鹿な母親を持っちまったばっかりに。あの女も場末の劇場の歌劇歌手から貴族の奥さんにまでなれたのにそこで満足しないで愚かな真似を。愛した男の子供じゃないからか、あんたには目もくれなかったねえ。旦那様はあんたを溺愛してたけど、今じゃその流れる血を信じられないんだろうね。でも母親みたいにしないのはもしかしたらっていうこともあるからかねえ」
少女にはばあやがぼやくその言葉を理解することは難しかった。ただ解るのはママが悪いことして、パパが怒ってしまったということだけなのだ。ママは確かに自分のことがあまり好きでないようだったが、少女は美しく歌が上手なママが大好きだった。プレゼントを沢山持ってきてくれるパパも勿論大好きだ。だから、今度パパがプレゼントを持ってきてくれたときに、ママをお仕置き部屋から出してあげようって言ってあげよう。そしたらママも自分に少し優しくしてくれるかもしれない。
「それじゃあ、しばらくここで大人しくしてるんだよ。あたしゃもう行かないといけないからね」
「ここにいればいいの? うん、わかった」
ばあやの言いつけに大人しく頷く。時折話をしてくれるママも、常にばあやの言いつけには従えとだけ言っていた。でも、そのばあやは何故か少し悲しそうな顔をしている。ばあやもパパから怒られたのだろうか。その手が自分の頭にゆっくりと伸びてきたので、顎を少し引き頭を差し出すが、その手は触れる前に引っ込められた。
「はあ」
いつものように深く溜息をつくと、ばあやは振り返って馬車へと乗り込もうとする。
「いってらっしゃい、早く迎えにきてね」
さすがに見知らぬ場所で一人は寂しい。ばあやの言いつけには子供の自分が分からぬことがあるのだろうから従うけど、できるだけ早く迎えに来てほしかった。
ばあやはぴたりと足を止めると、しばらくじっと動きを止め、「はあ」と肩を下げると再び振り向き自分の側へとやってきた。そして、その両手でそっと自分の頬を挟む。
「本当に哀れだねえ。あんたのおしめもあの女じゃなく全部あたしが代えてやったっていうのに旦那様も酷いことをさせる。でも、あたしには血のつながった大事な子供や孫がいるんだ。旦那様は基本気のいい人だ。お給金もたくさん弾んでくれる。逆らって今の仕事を失うわけにはいかないんだよ」
ばあやは目に涙を湛えている。頬を挟む両の手は小刻みに震えていた。自分に一番よくしてくれているばあやのその姿をみて、少女も悲しい気持ちとなる。
「大丈夫? 元気出して」
少女の言葉にばあやは微笑むと、頬から肩へと手を滑らせる。そして力強く肩を握ると、真っすぐ少女の瞳を覗き込んだ。
「ああ、すまないね。いいかい、よく覚えておいで。お前は残念ながら頭の方はちとよくない。さんざん教えたのに、六つでまだ文字だって満足に読めやしない。そんなお前さんの唯一の取柄は母親譲りの顔の良さと笑顔さ。足りない分だけ本当に無邪気に笑うからねえ。だからね、これからは常に笑顔ではい、はいとなんでも言われたことに頷くのさ。そうすればここでも運がよけりゃ……」
そこまで言ってばあやは言葉を詰まらせる。伏せた目元からどんな感情があるかを窺い知ることはできない。だが、両肩に食い込む手の力は痛いほどだ。
「わかったっ! そうするね!」
これ以上ばあやを悲しませないために少女は言われた通り精一杯笑ってみせた。ばあやもふ、と寂し気に微笑むと何も言わずにそそくさと馬車に乗り込んでしまう。振り向くことはなかった。「行っとくれ」との声が馬車内からすると、御者が馬車を動かす。
「ばあやーーー、早く迎えに来てねーーー!」
ばあやにはここにいろと言われたから動くわけにはいかない。でも、朝ご飯はパン一つだけであった。昼ごはんまでには迎えにきてくれるだろう。そう思いながら、少女は馬車に向かって手を振り叫ぶ。そうして馬車が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも手を振り続けた。




