胸を張って
「いい、スタン。法神様曰く、人は天の前では全て平等なんですって」
「なにさ、姉貴。やぶからぼうに」
またしても、朝起き掛けに姉が自分へ向けて法神とやらの教義を説いてくる。スタンは多少うんざりしつつも、その受け売りの説法とやらを聞いてやる覚悟を仕方なく決めた。これは毎日朝から晩まで働き詰めな姉の数少ない息抜きだと、最近うっすらと気付いてきたからだ。事実、朝だというのに威勢よく法神の教義を諳んじる姉は、とても活気に満ちていた。
「人という者は血や貴賤なくかけがえのないものなの。例えばね、私が、あんたのためにやむなく盗みを働いたとする。あんたは私のかけがいのないものだから、私だって必要ならするわ。でもね、そうして傷つけてしまった人もまた、誰かにとってのかけがえのない人なの。だから、そうなりそうなとき私たちは振り返らなければいけないのよ。それが本当に必要なのかって」
「……うーん、難しいね」
「まあ、確かにね。でも、これからそういう場面にも出くわすはずよ。そんなときに今の話を思い出せば、誰かにとってのかけがいのない人を傷つけてしまうことを踏みとどまれるでしょ? 一度踏みとどまれたなら、あとは踏ん張って考え直せば誰も傷つけない道だって選べるはずよ。そうやって生きていけば自分に何れ大切な誰かができたとき、その人に胸を張って真っ直ぐ向かい合えると私は思うの」
屈託のない笑顔で姉は笑う。善く生きるということに情熱を燃やすのが、過酷な労働に従事する姉の動力源でもある。そしてそれは、ひいては自分のためでもあった。自分を学校へと行かせるために、姉が休みなく働いているのをスタンは知っていた。
「それにほら、いつかあんたも好きな女の子ができるでしょうしね」
「別に、女なんて好きじゃねえよ。……うるさいだけだし」
「アハハ、このおませさんめー!」
その返事がツボに入ったのか、姉は大声で笑いながらスタンの額を指で弾く。
「じゃあ、私は行くわね。ちゃんと買ってあげた本で勉強するのよ?」
「わかってるって。いってらっしゃい、姉貴」
「うん。いってくるわね、スタン」
そうして、いつものように姉は工場へと仕事に出かける。帰ってくるのは日が落ちきってからのことになるだろう。その間、自分は姉の買ってくれた本で勉強しながら帰りを待つ。それがいつもの日常であり、これからも続く光景。──そのはずであった。
「てめえ、こんなこともできないのか!」
「ごっ、ごめんなさいっ! 叩かないでっ」
怒声と少年らしき子供の悲鳴、それに続く打擲音でスタンは目を覚ました。
「チッ、嫌な夢見ちまったな……」
スタンは布団を剥ぐと、寝藁のベッドより体を起こす。どうやら、軽く昼寝と洒落込むつもりが夕方まで寝てしまったらしい。窓より差し込む光は既に大分赤くなっていた。
いまだに続く悲鳴と打擲音を聞きながら、少年は欠伸をして広間へと出る。
「おうっ、スタン。お目覚めか」
スタンの姿に気付き、広間の中にいた一人の男性が声をかけてくる。
「うっす。……まあ、あんな声上げられたら寝れるものも寝れないっていうか」
「確かになあ。ほら、カインのやつだよ。あれは使い物にならないかもしれねえな。おとりも満足にこなせないしよ」
同情と嘲笑の入り混じった笑みを浮かべ、悲鳴のする方へ視線を向ける男。それをよそ目にスタンは食堂となっている部屋へと移動する。そしてカウンターへ行く前に料理番の男がスタンの姿に気付き、笑顔で声をかけてきた。
「よお、スタンか。お前さんはノルマもこなし、成績も優秀。働かざる者食うべからずというが、言ってみれば働いたものはしこたま食うべきだからなあ。ほら、もってけ」
そう言って山盛りにされたスープと、一つ多めに盛られたパンをスタンは受け取る。そして、それを近くのテーブルでモソモソと食べ始める。味は存外悪くない。料理番の青年は一般街の食堂で働いていたこともあるらしく、料理の腕もそれなりだ。すくなくともスタンは、これほどの料理をここに来るまで食べた記憶はない。
この青年には、他に特筆すべき点はない。しかし料理が上手く本人も料理好きのため、もっぱら料理番としてこのグループに貢献している。他の連中も己の胃袋を存分に満たすため、この青年に対しては一人一人が課されるノルマに対してもうるさく言わない。
「罰として、てめえは今日も飯抜きだッ!」
「そっ、そんなっ⁉ もう4日何にも食べてないんです……!」
「うるせぇ、まだ文句あるのか‼」
「ひぃっ」
遠くからでも響く怒声と鈍い打擲音。その後、こちらへドタドタと憤る足音が向かってきた。そして現れた厳つい風貌の男は、食事中のスタンを見つけると不機嫌そうな表情を一変させ笑いかけてきた。
「おう、いまお目覚めかい。天才スリ師は」
「うっす、ズマさん」
スタンからズマと呼ばれた男は、ここのスリグループを纏めるリーダー格の一人だ。そして、スタンにスリの技術を仕込んだ男でもある。スタンは一度食事を止め、ズマへと頭を下げる。そんなスタンに優し気な笑みを見せると、ズマは正面の椅子に腰を下ろす。そして一つ深いため息をつき、頭をポリポリとかいた。
「スタンよお、カインのやつは駄目だなあ。ありゃ、迷宮か鉱山送りかもなあ……」
その言葉に、スタンはピクリと反応する。どちらも命の危険を伴う仕事である。
ここでは見込みがありそうな子供を幼児の頃から仕込み、幼い頃は窃盗のおとり、成長したら単独でのスリが許される。そうした者たちが集って月々の上納金を支払い、団体として縄張りを維持している犯罪グループの一つであった。スタンも二年前に劣悪な孤児院から脱走し、空腹で蹲っているところをズマに助けられたのだ。
「どうしても駄目っすか」
「ああ、見込みはゼロに等しいな。たった一回見ただけで技を覚えちまうお前は別として、他の奴らと比べても格段に出来が悪い。別に不器用というわけじゃないが、覚悟が足りねえんだろうなあ」
ズマはやれやれと肩をすくめ、また溜息をつく。
こう見えて、ズマはとても面倒見のいい男であった。目下の者にもしっかりと分配金をちょろまかさずに渡すし、技術の指導も他の年長者よりしっかりと行ってくれる。そのズマが匙を投げようとしているということは、相当駄目だということに違いない。
「……ま、他人のことはあまり気に掛けるなよ。それがここで生き抜くためのコツだからな。スタン、お前は今はスリの技術を高めることに集中しろ。お前なら、いずれ俺の全ての技を継げる」
ズマはスリ師の中でも指折りの技術を持つ凄腕だ。スリという職に誇りを持ち、その技に高い矜持がある。スタンのことを目下の弟子のように扱っており、大分目を掛けられていた。
「さて、そろそろ出来の悪い奴らを指導しにでもいくかね。ああ、お前はもうとっくに今月のノルマを達成してるもんな。けど、周囲にやっかまれない程度には励めよ? お前の単独を好む態度や、例の馬車代を残してやるスタイルを驕りととらえて妬んでいるやつも結構いる。だから気を付けろ。……俺は嫌いじゃないがな」
じゃあなと、ポンと肩を叩くとズマは食堂から出ていった。それを見届けたスタンは手早くスープを平らげると、パンをポケットに突っ込み席をたつ。
「ごちそうさんです」
「おう、皿は置いといてくれ」
すっかりコックのようにふるまう青年へ頭を下げると、スタンは食堂を出る。
「ふう。……やれやれ」
静かに耳を澄ますと、外から押し殺したような掠れた声が聞こえてくる。……仕方ない。このままでは自分の気分まで悪くなってしまうし、寝つきだって悪くなる。これは、あくまで気兼ねなく惰眠をむさぼるためなのだ。そう己に言い聞かせ、スタンは外へ出ると狭い路地裏に入った。すると、そこには膝を抱えて蹲る自分と同い年ぐらいの少年がいた。
「よう、カイン」
「……あ、スタン」
カインと呼ばれた少年は、ぐずる鼻をすすりながら泣きはらした赤い目でこちらを見上げる。まだ中性的で柔らかい顔立ちのカインは、とても優しくおとなしい少年であった。だからこそ、ここのやり方は向いていないのだろう。
スタンは溜息をつくと、カインの隣へと腰を下ろす。そしてポケットからパンを取り出し、カインへと渡す。
「あ、ありがとう……。ごめんね、いつも」
「気にすんな。食いきれなかっただけだ」
スタンが素っ気なく言うと、カインは笑顔を見せながらパンをモソモソと食べ始める。このことがバレたら、きっと怒られるだろう。もしかするとズマあたりは薄々勘付いてはいるかもしれない。だが、あの男なら何も言わないだろう。ズマも裏でこっそり似たようなことをしているのを、スタンは何度か見ていたからだ。
「……スタンは、凄いね」
パンを食べ終えたカインは、羨望のこもった眼でこちらを見てくる。
「僕と大して年も変わらないのに、もう一人でスリをやってる。同年代の子たちは、皆スタンのこと凄いって噂してるよ」
「昔から手先は器用だったからな」
「ズマさんも、よく皆にスタンを見習えって言ってるし。気に入られてるね」
「まあ、あの人には感謝してるよ」
曲がりなりにも行き倒れていた自分を拾ってくれた恩人だ。あれがなければ飢え死にしていたかもしれない。そして、まだ生き抜く術を持たない自分にスリの技術を教えてくれた。スタンは己の手をじっと見る。もう、数えきれないぐらい他人の懐から金を盗んできた手だ。
「……ねえ、スタン。どうしてスタンはいつも一人なの?」
カインは、そんなスタンにおずおずと質問してくる。
「なんだよ、急に」
「ご、ごめんね。別に話したくないなら話さなくていいよ」
ここの少年たちは群れてスリを行う者が多い。その方が成功確率も上がるし、失敗したときもカバーしやすいからだ。単独で事に及び失敗したら、最悪叩き殺されることだってある。スタンも周りから組まないかと声を掛けられたことは何度かあった。だが、いずれも断り常に単独で仕事をしている。
「別に、ただ一人がやりやすいだけさ。……それに、もう胸を張って生きることもできねえしな」
「え?」
怪訝な表情のカインをよそにスタンは立ち上がると、尻をパンパンとはたき埃を落とす。
「なんでもねえよ。それよりカイン、お前そろそろ迷宮か鉱山に送られるぞ」
そうカインに告げると、その顔がサッと蒼褪める。それが命の危機をともなう仕事だと幼い子供でも知っているのだ。それが嫌ならグループを抜けるという選択もあることにはあるが、その際には凄惨なリンチが待っている。誰でも気軽に抜けられると、稼業に支障をきたすためだ。実際、スタンも逃げた少年が長時間殴打されるのを見たことがあった。ひ弱なカインに、それは耐えられないだろう。
「ど、どうしよう……」
「それが嫌なら覚悟を決めろ。お前、年寄りを狙うの嫌がってるって聞いたぞ」
「それは……でも、スタンも」
「俺は他からでも出来るからやってないだけだ。もう後がないお前とは違う。……まあ、仕方ないから余り衛兵なんかもいないポイントを俺が教えてやる。今度仕事に行くとき、それを仲間に提案しろ。そして、場所は自分で探し当てたって言え」
「……いいの?」
スタンは黙って頷く。美味しいスポットを教えるのは痛いが、他にもいくつかとっておきはある。その場所を教えてやると、カインはスタンに頭を下げた。
「ありがとう、スタン。このお礼は必ずするよ」
「おう、頑張れよ」
それだけ言うと、スタンは振り向くことなく路地裏を後にする。そして、再び己の掌をじっと眺めた。……もう自分には胸を張れる資格もなければ、大切な人だっていないのだ。
「まあ、現実はこんなもんだろ」
己の現状に自嘲めいた笑みを浮かべる。そして今日は何もする気が起きないので、再び惰眠を貪るため寝床へ戻ることに決めた。




