少女恐怖症
あの子は、いつも近くにないものを見ていたと思う。
夢というにもおぼろげで、現実というにはイビツすぎるものを見ていた。だから、鏡の中に旅に出た。
妹を追う方法を知らなかった俺が生きる理由も死ぬ理由も思いつかないまま十年が経ち、大人になった頃、突然世界が変わった。妹と同い年のあの子が、変えてくれた。
その子は、鉄仮面を付けて様々な恐怖症に襲われながら、誰かのために戦い続けていた。
はじめて妹以外のために何かをしたいと思えた。この子のために頑張りたいと思えた。思わせてくれた。
俺の人生が、十年ぶりに動き出した。
いつもの悪夢だとは気付いていた。だからこそ目覚めるのが惜しい。
俺の妹はとても賢かったが、自分が寂しがり屋であることは知らなかった。遊びたいとき兄である俺にすらどう声を掛けて良いかわからないのだ。
「神夜、遊ぼ」
背中が嬉しそうになるが、振り向いたときには仕方ないなぁ、という顔をしている。
生意気なのが神夜で、ただただ可愛い。
「子供っぽいのは付き合わないよ? クリエイティブなヤツしかしない」
「なら、シナリオ造りだな。物語を作るんだ。どう?」
「……まあまあかな」
ふたりで物語を作り、それをぬいぐるみで演じる……お人形さん遊びではない。シナリオ造りというとてもクリエイティブな遊びだ。
妹が楽しければそれでいいし、おそらく世界中の兄という生物がそうであるように、十二歳で俺は、自らの存在意義を妹の笑顔と幸せを守ることであることを確信していた。
夢は、いつも通り、そのシーンを再現しはじめていた。
神夜は、遊園地で遊ぶように鏡をすり抜けた。冷たい鏡を。
現実離れした現実の記憶が、虚像離れした虚像として夢を成す。
神夜は戻ってこなかった。人生最悪の瞬間。誰も信じてくれない悪夢。
俺の存在意義はハタチを過ぎても変わらず、この悪夢の中で妹の面影を追うことだけを待ち望む人生。
今回も、鏡をくぐる妹のちいちゃな唇が、こう動いた。
「起きろよ」
え?
夢が消えてから腹の痛みに蹴られたことに気付いた。そこはふかふかの絨毯の上。
おかしい、ここはどこだ。愛しのボロアパートじゃない。
周囲を見渡せば、小奇麗なファイルとぬいぐるみが所狭しと並べられているアンバランス。
誘拐でもされたとしか思えないが、誘拐した人間をそんな部屋で監禁するのかは疑問だ。そして目の前には“そいつ”がいた。俺を蹴っ飛ばしたヤツだ。
「確認。お前は蝶谷幸希だな」
「……いや、ちょっと待て。マジで待て」
「お前の質問は許していない」
「でも、さ……おたく、その顔、何?」
誘拐犯は確実に年下だった。
ニット生地のベスト、ハーフパンツ。子供っぽくならないようにという背伸び具合が中高生のそれだ。
しかしながら、その顔は精工すぎた。黒い鏡面のような磨き上げられた鉄仮面で覆い、襟足から覗く刎ねた後ろ髪によって茶髪であることがわかるだけ。
鉄仮面少女。それが率直な感想だった。
「私は“醜形恐怖症”だ。ブスだと思われたくない恐怖症なんだ。見てわからないのか」
「見てわかるわけないだろ。てか、声からすれば、おたく、カワイイと思うけどね?」
「分かっているさ。ただ、それでも怖いものは怖い。情けないが、そういう病気だ」
「そりゃあ……なるほど」
「他にも私は、“酔っ払い恐怖症”だし、“金属アレルギー恐怖症”……。
二五以上の恐怖症を抱える人間を呼称するための便宜上の病名だが、“森羅恐怖症”という病気だ。
私は七〇以上の恐怖症がある。重病人、と言っても良い」
「つまり、アルコールや金属アレルギーってこと?」
「違う。金属のアレルギーを発症するんじゃないかという恐怖症なんだ。だから金属アレルギーの人間の近くにもいたくない。体質じゃあない。精神的なものなんだ」
「そりゃあ……難儀するね。何か俺に手伝えることはあるかい?」
俺は警戒できていなかったように思う。考えなしの善人というのが俺の悪癖。そういう性格なんだから仕方ない。
鉄仮面少女は表情はわからなかったが、さして驚く様子もなく声色も変えなかった。
「そのために拉致ったに決まってるでしょ。バカなの?」
「誘拐しておいてなんでそんなに態度でかいの。おたく」
「人質に態度の小さい誘拐犯なんているわけないでしょ」
「……それは確かに……じゃあ、お前は俺に何をさせたいんだ?」
「人のことをお前って言うなよ。育ち悪すぎ。お前」
その口の悪すぎる自称美少女の開いたファイルには、丸いキャラクターが描かれているカラフルな付箋で装飾されているが、写真には不釣り合いな衝撃が写り込んでいる。
口から黄金を吐いている女、風船のように浮かび紐でベッドに繋がっている子供、膝や腹部に顔のような傷が出来ている男。
その傷にまで目線にプライバシー保護の黒塗りがされているのは笑っていいのか?
「病気、なのか?」
「空を飛べても落ちたら怪我をするでしょ。病気と特技は個性の別の相でしかないよ。
優れた能力と見るか、欠点と見るかの違いはあれど、私の治療を必要としている患者がいる。お前の仕事がわかったな?」
「全然」
「わかれよ。私の付き添いが体調を崩したから、その代わりをするんだ」
わかるわけないだろ、と反射的にツッコミを入れようとしたが、それ以上にわかることがあり、思わず確認した。
「その人の体調不良の理由、ストレスと過労?」
「……どうして急にそんなに物分かりが良いんだ?」
俺は育ちが悪いかもしれないが、こいつは態度と性格が悪い。こいつの介添えなんてしてれば過労にもなるわ。
とはいえ、現実感がない状況で、現実的でない写真に俺ははじめて現実感が戻ってきていた。
どこかで誰かが困っている人間がいる。そして目の前の小娘は、性格が悪いながらにそれを救おうとしている。
「……ま……良いけどね。お前も根は悪いヤツじゃなさそうだし」
「だーかーらー、お前って言うなよ。学習能力ないのかよ」
「いや、俺、お前の名前、聞いてないんだけど」
鉄仮面少女はコンコン、と弾くように指で鉄仮面を叩いてからそうだっけ? と小首をかしげる所作が、ちょっとだけカワイイ。
「私は美月芳香。覚えろ」
「覚えた。芳香ちゃんね」
「雇用主ナメてんのか。さん付けだろ常識で考えて」
「誘拐犯がいつから雇用主になってんだよ……じゃあ、ホーさんで良い?」
「……許可しよう。ところで妹を見つけ出したらどうする?」
お前は俺のことを呼び捨てにするのかとは思ったが、面倒だから思うだけにした。
質問には、思ったことをそのまま言うことにした。誰かに聞いて欲しかった意味もある。
「抱きしめて愛してる、伝えるな」
「ウザっ……」
「兄貴なんだから仕方ないだろ。妹を愛してるのは」
「恥ずかしいヤツだな……じゃ、今は、いいか」
「なんの話?」
「バカは考えなくていいよ」
……?
手掛かりでも探してくれる気なのかな?
まあ確かに鏡の中に消えたとなれば、超能力の話だな。
「で、俺は何すればいいわけだ」
「運転手。私は突発的に恐怖症に襲われば動けなくなるしかない。そんな恐怖症への恐怖症もある。足になれ」
「アイアイサー」
その後、猫の毛が落ちている廊下や、やたらにぬいぐるみだらけの部屋を抜けた。
途中、ホーさんは鍵を閉めたか分からなくなる恐怖症や、スニーカーのヒモが解ける恐怖症からの確認で時間を使いつつ、たどり着いた車庫に有ったのは、室内で見た覚えのあるまん丸いキャラクターでデコられたイタリア製高級車。
社内までキャラクターがプリントされ、後部座席はピンクのファーでフカフカ。
「あの、これ……」
「安全運転でな。私は酔いやすいんだ」
「いや、デザイン……」
「カワイイのは知ってるよ」
「……そっすね……ホーさん、何歳?」
「十七歳」
なら年相応か。いや普通は十七歳は自家用車なんて持ってないけど。
どこか浮ついた自分を落ち着けて運転するために俺は日常会話をすることにした。
「そういえば、ホーさん、俺の妹と同い年だわ」
「それはそうでしょ」
「なんで?」
「……幸希、お前、ほんと、バカね」
……?
意味が分からないが、ホーさんがバカ呼ばわりするのは口癖みたいなもんだろ。
なぜかは知らないが初対面じゃない気がするというか、声を聞いているだけで嬉しくなっている自分がいる。
妹と同い年の子と会話できて嬉しいのか。鉄仮面越しでも声も似てるし。
「ところでホーさん、行先どこ?」
「静岡のF町だ。幸せの希薄な男」
「俺の名前は幸希だけど、希薄じゃなくて希望の希だよ。幸せと希望の幸希……今回の患者さんがどんな感じかって聞いても良い? 個人情報?」
「私の付き添いならお前も医療従事者だから開示はする。今回は医学的には意識喪失の患者。魔術的には呪い……不幸の手紙系だ」
「不幸の手紙って懐かしいな。本当に不幸になるのか、それ?」
「まさか。今回は通ったサーバーで妙な呪いを拾ったんだろうな」
「サーバー……?」
「紙の手紙じゃない。チェーンメール。今、一番呪いが多い場所はインターネット回線の中。常識」
「どこの世界の常識なんだそれは。とにかく緊急だな。高速の入り口は……」
「私は高速道路恐怖症だ。下を行け」
「……ここ、東京なんだけど?」
「だから?」
言いながらホーさんは一番大きな手荷物――更に大きいものは俺に持たせていたが、それだけは自分で持ってきていたもの――を開けた。
そこから猫が一匹ピョンと飛び出したことで、俺はそれがキャリーバッグであることを知った。
白い胴体に黒いマントを被り靴下を履いたような猫は、ルームミラー越しに俺の顔を見てくすくすと笑っているようだった。まるで俺の心を見透かすように。
アクセルを踏み込む足が妹が消えてから十年。はじめてワクワクしていたのだ。
「良いお兄ちゃんね、芳香ちゃん?」
「ただバカなだけでしょ」
今、後部座席でホーさんが思いっきり猫と会話してた気もするが、些細なことだろう。





