タヌキと僕の母殺し
「私、タヌキなんです」
マオと名乗った少女は事も無げに僕に告げた。
ここは静かな山の麓に建つ小さな大学の学生相談室。そこで僕はカウンセラーとして働いていた。
ある日、僕の前に予約も無く訪れた少女は開口一番衝撃的な告白をする。
精神病の症状か、はたまた薬物による幻覚・妄想か……。内心焦り、医療機関への紹介を考える僕をよそに、マオと名乗った少女は平然と続けた。
「私の話を聞いてください」
自身をタヌキと語る少女とカウンセラーの不思議な面接が始まり――二人はそれぞれに「母」を殺す。
これは自分が自分であるための、面接記録。
僕の仕事は職場の窓を開けることから始まる。
僕が勤める大学は都市部から車で数十分ほどの山の麓に建っている。窓を開けると湿った土と若草の匂いが吹き込んでカーテンを揺らした。
僕は数年前からこの大学の学生相談室のカウンセラーとして働いている。学生相談室とは学生を対象にカウンセリングを行う施設で、基本予約制で、料金は無料である。
カウンセリング中は窓を開けられない。そのため新しい空気を室内に取り込むために朝イチで窓を開けるのだ。そして僕は受付のパソコンを立ち上げ、こっそりと今日の予約を確認する。
「今日は、三限が空きか……」
本来なら予約の管理は相談室受付兼事務職員の仕事となっている。しかし僕はあまり人付き合いが得意ではない。だから……というわけではないのだがこの春、新しく相談室の受付に来た女性と積極的に関わりたいと思えず、自分で予約を確認していた。そして学生が来るまで部屋で待機している。
カウンセラーだからといってコミュ力抜群なわけではないのだ。むしろ自分のように関係作りが得意ではない人間がカウンセラーになるのではないかと思っている。
その日も僕が出勤して三十分経った頃に受付の職員が出勤してきた。そして学生も予定通り来談し、休憩時間となる三限目が訪れた。
空気を入れ替えようと窓を開けたその時だった。
コン、コン
控えめに、しかしはっきりと相談室のドアがノックされた。
このドアをノックするのはカウンセリングを予約している学生か、受付の職員のどちらかだ。しかし今日はこの時間予約は入っていないはずだ。とすれば、受付が訪ねてきたのか。
僕はドアノブに手をかけ、一度深呼吸して、ゆっくりとドアを開けた。
そこにいたのは学生と思われる小柄な少女だった。
「君、は……?」
「相談に来ました」
僕がおそるおそる尋ねたのに対し、少女は語尾まではっきりと答えた。
「予約はしてないよね?」
「はい。していませんが、時間が空いていれば当日でも相談を受け付けているとポスターで見ました」
「えっと受付は?」
「今日は無理ですか?」
チラッと受付に視線を向けると『外出中 すぐ戻ります』の札がかかっている。
もう一度目の前の少女に目をやる。茶色いふわふわとした髪の毛を風に揺らし、たれ目がちな瞳はまっすぐ僕を見据えている。
僕は手のひらがじわっと湿ってくるのを感じた。
基本的に予約の相談以外は受け付けていない。それはカウンセリングを行う上で大切な決まりだ。彼女の言った「当日も受け付ける」というのは「一旦受付で話を聞き、カウンセリングとしての時間は改めて設定しますよ」という意味合いだ。
緊急時など例外もあることにはあるのだが……。
僕は悩んだ。
本人が「無理か?」と聞いているのだから断ってもいいのだ。しかし目の前の彼女からは必死さも感じられる。受付が戻るまで待たせるか。だが「予約もないのに直接来室する」ということ自体、この子の問題が現れているではないか。そうだ、緊急性はそれなりにある。
若干強引な理論展開ではあったが、一つ大きな息をつき、手をスラックスで拭いながら「どうぞ」と少女を室内に招き入れた。
要するに断るのが苦手なのだ。
室内には自分のデスクの他に、応接用の小さなテーブルとソファーがおかれている。実は箱庭などもあったりするがあまり使っていない。
彼女は一番入り口に近いソファーにちょこんと腰かけた。
まず初回時には全員に書いてもらっている「相談申込用紙」を彼女にも渡した。学内の機関であっても個人情報を知られることに抵抗のある学生もいるので、「書ける範囲で良いですよ」と告げると彼女は軽く頷いて記入を始めた。
僕は彼女の対面を避け、直角に位置するよう座った。記入する彼女の様子を見て僕は内心ギョっとした。彼女はまるで幼児のようにペンを握りこんで持っている。書き込む字もようやく判別可能というところだ。しかし彼女の顔は真剣そのものだった。
彼女が書き上げた申込用紙には「マオ」という名前と「はなしをきいてほしい」という主訴のみ記入され、あとは空欄だった。
紙から顔を上げ、彼女を見る。
丸顔にたれ目。ふわふわとした茶色い髪は肩程のボブ。オーバーサイズの服を着ている。
彼女の話とは何だろうか。いや、この文字の感じからすると学習面で困っているのかもしれない。とすれば単位関係だろうか。僕は想像を巡らせた。
「あの、ここに書いてもらった『はなしをきいてほしい』ということについて、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
僕がお決まりのセリフを口にすると、少女はパッと顔を向けてパチパチと瞬きをした。そのしぐさが小動物みたいだと思った。
「字、読めましたか?!」
「読めましたよ。お名前も『マオ』さんで間違いないですか?」
「そうです! 良かった!!」
どうやら字が綺麗でないことの自覚はあったようだ。嬉しそうに笑みを浮かべる彼女は、次の瞬間爆弾を落とした。
「私、タヌキなので」
タヌキ。
狸、たぬき。
「え、っと。タヌキ、っていうのは?」
ここは質問に限る。勝手な推測はクライエントへの理解を歪ませてしまう。
「タヌキです。知りませんか? 動物の」
「動物のタヌキは知っています。あなたが誰かに『タヌキ』と呼ばれているということですか?」
そうだとしたら本人は気づいていないのかもしれないがいじめかもしれない。そんな思いを抱きながら僕はさらに質問を加えた。
だが、平然とした顔の彼女から返ってきたのは、さらに僕の思考に混乱を招くものだった。
「いいえ、私、タヌキなんです。タヌキだけど、人間に変身して来ているんです。話を聞いてほしくて」
僕の心臓は跳ね上がった。そんな時ほど冷静にならなければいけない、大学院時代の恩師が言っていた。
すぐに今後の対応を頭の中で組み立てる。
もしかしたら彼女は精神病を発症しているのかもしれない、もしくは薬物使用による幻覚や妄想の類なのかも。発達の偏りによってそう思い込まざるを得ないのかもしれない。たとえどの場合でも、彼女を医療機関に繋げなければ……。
頭をフル回転させている僕をよそに、マオは話を続けた。
曰く、5つ子の真ん中として生まれ、幼い頃から人間への憧れがあり、変化の術に加えて文字や言葉などの人間の文化を必死で学んだ、と。
しかし母にはあまり認められないまま、人間でいうところの成人を迎えた。さてこれからどうしようか、と考えながら住処の近くのこのキャンパスを散歩していた時に学生相談室の案内を見た。そこで学生に化けて相談しようと思った、ということだった。
「どんな内容でもお話に来てください、と書いてあったので、私の話も聞いてもらえるかなと思って」
マオは学生証も持っていた。名字の部分は学生証を持つ指で隠れていたが、隠れていない顔写真の表情は固いものだった。
気づくと既にカウンセリングの終了時間間際となっていた。僕はそこでようやく彼女のペースに巻き込まれていたことに気がついた。
「先生、終わりですか?」
僕が腕時計に一瞬向けた視線をマオは見逃さず、すかさず反応してきた。
「あ、はい。時間です」
「わかりました。じゃあ次はいつですか?」
「次、あ、ああ、次回は……」
僕はまたもや悩んだ。
完全にマオのペースである。これではまるで僕がクライエントで彼女がカウンセラーのようになっている。しかも僕の見立てでは、彼女には一刻も早く医療機関を受診してもらう必要がある。ここまで操作的な彼女の病理は思っているよりも重いかもしれない。
受診を勧めよう、そう思っていたはずなのに僕の口から出たのは全く異なるものだった。
「ではまた来週、同じ時間に」
口にしてすぐに、しまった!と思った。
そんな僕の内面など知りませんとばかりにマオはにっこり笑顔になった。
「わかりました。また来週ですね。ありがとうございました」
そう言い残し、マオはあっという間に退室した。部屋に一人取り残された僕はしばらく呆然としていた。
ふわり、と舞い上がるカーテンが僕の意識を引き戻す。
「窓、閉め忘れてたのか……」
誰に言うでもなく呟きながら、僕は窓に近づいた。そしていつもなら仕事時間に見ることのないスマホを手に取った。動揺を抑えたかったのかもしれない。
画面を明るくすると、珍しく通知が来ていた。
実家の姉からだった。
僕の実家には現在2つ上の姉と認知症を発症した母親が暮らしている。父親は僕が大学生の頃に他界した。
僕は大学進学と共に実家を離れ、そこからあまり寄り付かないようになっていた。小さい頃から母親には出来の良い姉と比べられ続け、正直実家が苦手だったのだ。
姉からは『お金ありがとう。たまには顔が見たいです。』とメッセージが送られてきていた。僕は介護をしないかわりに定期的に送金をしてるからそのことだ。
「顔が見たい、だってさ。誰がだよ」
僕は口の中で小さく唱え、スマホの電源を落とした。
そういえばマオと名乗った少女は本当に来週も来るのだろうか。来週の同じ時間、念の為予約を取っておこう。医療機関の目星もつけておかなければ。
そう思い、僕はドアを少し開けて受付に向けて声をかけた。
「すみません。来週の三限目、空けておいて下さい」
受付の職員は既に戻ってきており、「わかりましたー!」と元気よく返事をしてくれたが、それ以上の事は僕に尋ねることはなかった。そのことに気づいたとき、僕はひどく安堵したのだ。





