キナーンの迷い
祭りの喧騒から一歩離れた路地は、提灯の明かりも届かず、深い闇に沈んでいた。その中で、黒い装束に身を包んだウルサリオン族の兵士たちは、息を殺しながら装備を整え、ただ計画の時を待っていた。
しばらくすると、静寂を破るように、ウルサリオン族の声が響いた。それは犬型魔族の遠吠えを模した巧妙な合図だった。城にいる三ツ目族も、街の住民たちも、それをただノラ魔族の叫びと受け取り、警戒を強めることはなかった。
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祭りの喧騒を遠くに感じながら、城下町から離れた少し高い丘にキナーンを中心とした数名の三ツ目族の魔法使いたちが集まっていた。その周囲では数名の三ツ目族とウルサリオンたちも準備を整えていた。
魔法部隊が一列に並んでしばらくすると遠吠えが彼らの耳にも届いた。
「キナーン様、合図です」
年若い魔法使いのアルバリが、遠吠えを聞き取ると静かに告げた。彼女はキナーンを中心とする魔法使い部隊の副隊長だった。キエティは、キナーン以外にも魔法のセンスを持つ者を探し続け、ついにこの部隊を結成した。
「そうだね、アルバリ……」
しかし、キナーンはすぐに動かなかったため、彼も同じように考えているのではないかと思った。彼女は悪いとは思ったが、自分の持つ特殊な魔法能力でそっと彼の心に触れた。
(あぁ……やっぱり……)
キナーンの迷いが伝わり、アルバリは胸が痛んだ。だからこそ、彼女は抑えきれずに問いかけた。
「キナーン様、本当にやりますか……」
「も、もちろん、やるよ……。僕らはキエティ様のご命令に従うだけだ」
「そうですね……。ごめんなさい、副隊長として適切な発言ではありませんでした……」
「い、いや……、僕の方こそごめん。始めよう」
「はい……」
部下の不手際に対しても自分が悪いと言ってしまうキナーンにアルバリはやるせなさを覚えたが、彼の命令を待った。
「ふ~……」
意を決したキナーンは、大きく息を吸い、部隊に命令を下した。
「さぁ、詠唱を始めるよ。僕に合わせて」
魔法部達の者達は頷くと彼の声に合わせて詠唱し始めた。
<< ワ・イイ・ス・イイ・ヤ >>
彼らの手には、大きな杖が握られていた。その表面には無数の水晶が埋め込まれ、魔力を増幅する光が微かに揺らめいていた。キナーンの杖だけは特別なものだった。その頂には、透き通った大きな水晶が輝き、わずかに魔力の波動を放っていた。
詠唱の声は調和し、まるで重なり合う旋律のように静かに響いた。そして、最後の言葉が終わると同時に、杖が一斉に天へとかざされた。
「風たちよ、城に向かって流れるんだ」
凪の空気がわずかに揺らぎ、やがて風が生まれた。それは見えぬ手に導かれるように、城へと向かいながら徐々に勢いを増していった。
その流れに乗せるように、三ツ目族とウルサリオン族は燃え上がる木のクズから煙を立ち昇らせた。濃い煙の中には特殊な香りが混ぜ込まれていた。それは魔族の本能を刺激し、引き寄せる力を持っていた。そして、風に乗った煙は、城へと静かに流れていった。
キナーンたちは、その匂いが自分たちに染みつかないように、風下へと離れていった。
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キナーンはただ立ち尽くし、ノラ魔族たちが城下町へと消えていくのを、焦点の定まらない瞳で追い続けていた。自分の行動は正しかったのか――その答えは、どこにも見つからなかった。
「……」
数年前から魔法使いになったアルバリは、キナーンが昼夜を問わず働いている事を知っていた。また、寝る間を惜しんで魔法書を勉強していることも知っていた。そんな彼が始めて迷い、苦しんでいることが分かり、アルバリは耐えきれなかった。彼女は、気づけば震えているキナーンの左手をそっと握りしめていた。
「アルバリ……?」
キナーンは、柔らかく暖かい手を感じ、驚いてアルバリを見つめた。彼女は俯いていたが、その手から伝わる温もりが、彼の苦しみに寄り添っていた。キナーンは、ゆっくりと指を動かし、感謝するように優しく握り返した。
風魔法
ワ 我は
・
イ
イ 強風を
・
ス 貯め
・
イ 更に
イ 強め
・
ヤ 放たん




