ナーサリーライムは黄昏の空に溶けた
河西綾音について、近所の住人の知ることはほとんどなかった。すれ違えば挨拶する程度の付き合いこそあったが、元々密接な近所付き合いのある地域でもなく、また彼女自身もあまり多くのことを語らなかったからである。
彼女についてわかっているのは、際立って美しいとは言えないまでも整ってはいる顔立ち、そして幼い息子がひとりいること。彼女の周りを小さな足で駆け回り、愛嬌のある笑顔を振り撒きながら母親に抱きつく、少し甘え癖の強そうな、彼女の息子。普段表情の薄い綾音も、そんな息子に対しては優しい声で名前を呼び掛け、時にはその胸に抱き上げたりもしながら微笑んでいたのだという。
仲睦まじい親子の姿は、そのふたりを見かけた誰もが覚えているほどに幸せそうなものだったが、近所の住人は口を揃えて言うのだった。
最近、息子である翔悟の姿を見かけなくなった、と。
1日の終わりを告げるような蝉時雨が、部屋の静けさを突きつけてくる夕暮れ。
まだ、泣き声が耳にこびりついていた。
ゆっくりと離した手にはもう何も縋りついてくることはなくて、何度も蹴られたお腹がまだ淡い熱と痛みを帯びている。
噎せ返るほどの息苦しい湿度に包まれた、アパートの小さな部屋。耳が痛くなるほどの静けさが胸まで押し潰してくるような、ありふれた、狭く閉塞感に満ちたそこで、私は両膝を畳についたまま、呆然としているしかなかった。
ささくれた畳がどこか不気味な陰影を形作り始める、嘘みたいに赤い夕焼けが燃え広がった居間から、どうしても動けない。
窓を閉めきった部屋のなかで、私自身の鼓動と荒い息がずっとうるさくて、最初からそれしか音が存在しないみたいにも感じられるのに、私の耳にはやっぱり、さっきまでずっと続いていたあどけない泣き声がこだましている。
やだ、やめて、どうして。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
もうやめてよ、それは私の台詞。どうしたら止まってくれるの? いくら耳を塞いでも、目を瞑っても、耳の中にこびりついた泣き声は止まらない。切羽詰まったような、わけがわからず当惑したような、もうどうにもならないと気付いて絶望したような、それでもまだ一縷の望みを捨てきれずに祈るような、そんな泣き声が、ずっと鳴りやまない。もしかしたらまだ泣いているのかと思って目を開けて見下ろすと、当たり前だけどもう泣き声の主は声なんて上げていない。
そう、当たり前なのだ――もうこの子は、泣くことなんてない。この先ずっと、二度と泣き声なんて絶対に上げることはない。もう顔だってわからないくらいに赤黒くなって、熟れきって木から落ちて誰からも顧みられなかった果実のようになっている。原型なんて、もうわからないくらいになっている。
それなのに、まだ声が聞こえる気がして、泣き顔が見える気がして、私は見下ろしたモノから目を逸らせずにいる。
たった今首を絞めて殺したはずの息子が、まだ泣いているように見えた。
後悔したのは、首に手を回した瞬間。
その瞬間、好物のホットケーキに誘われて目を輝かせていた息子が何が起きたかわからないというように呆けて、それから嘘のように顔を強張らせて、見開かれた綺麗な瞳からポロポロと宝石みたいな涙が零れ始めて。
それを見たときだけ、心の底から後悔した。それでも、止まれなかった。
首を絞めている間、息子の顔はよく見ていなかった。視界に入っていたのはいつかヒーローショーを見た帰りに買った、息子のお気に入りのTシャツ。今日もそれを着ていて、さっきだってとてもご機嫌で外を出歩いていた。隣で聞いていた少し音の外れた歌のタイトルは何だったろう、後で聞こうと思ってたのに、もう聞けない。胸の辺りにプリントされた特撮ヒーローがまるで私を咎めるように真正面から見つめ返してきていたけど、それでも手に込めた力は緩まなかった。
息子はかすれた声で、何度も何度もごめんなさいと謝っていた。私が何を思っているのかわからずに、けれど自分の何かが私を怒らせたのだと思い込んで、必死に謝り続けていた。
けれど私は、謝る息子の期待には答えられなかった。答えられるはずもない、だって息子には許すようなことなんて――許しを乞わなければならないことなんて、ひとつもなかったのだから。
ただ強いてひとつ挙げるなら、その顔。
彼を遺した父親に少しずつ似始めたその顔が、悪かった。成長していくその顔が、私は怖かった。
だから。
「翔悟、ごめんね」
一言だけ、静かに声をかけて。
手に残るじっとりした皮膚の感触を、握り潰して。
物言わぬ息子の顔がもう二度と戻らないように、しばらく温めておいたアイロンをその鼻先にそっと当てて、深呼吸と共に強く押し付けた。
アイロンが、翔悟の顔を焦がしていく。動かそうとするたびに皮膚がくっ付いてくるのがわかって吐き気を催す……そんなことを何度繰り返しただろう、もうすっかり冷めきって離した頃には、今度こそ翔悟の顔はその面影すらわからないほどに変貌していた。
これでもう、幸一のことを思い出さなくてよくなる。私の中にあったのは、悲しみよりも後悔よりも、そんな安堵だった。
翔悟の父親で、私の夫だった男――幸一の影から、ようやく出られたような気がしたのだ。確かに愛していたはずの彼に対して、恐怖と殺意を覚えるに至った、あの日々からも。
それまで、身体を重ねる行為というのはもっと愛のあるものだと思っていた。もちろん世の中には想いの通わない、時には相手の尊厳すら蔑ろにするような行為が蔓延っていることは知っていた。
けれど、少なくとも夫婦間での行為に限ってはそういうものなんてないと、そのときまでの私は愚かしいほど純粋に、信じていた。
幸一と結婚したのは、大学を出てしばらく経った頃。在学中に付き合い始めた彼との未来を意識し始めたのはその数ヵ月くらい前で、どうやらそれはお互い同じようだと知った日にはずっと頬が緩みっぱなしだったのも覚えている。
出会ったきっかけは就活セミナーのOB訪問で、既にテレビとかで名前を聞くこともある有名な会社で働いていた幸一が朗々と自分のことを話す姿は、とても大人びて見えた。質問にかこつけて連絡先を聞いて、それからも相談という口実でたくさんのメッセージをやり取りした。
その中でたくさんのことを――進路のことだけではなくて友人のことや、当時付き合っていた彼氏とあまりうまくいっていないこととか、他にも日常様々なことの愚痴をこぼしたり、本当にたくさんのことを彼に話していた。彼はそのひとつひとつに対して丁寧にアドバイスしてくれていたし、現に友人関係については彼のおかげで改善することもできていた。そして、そんな彼に対する私の感情が「憧れ」から「信頼」に、そして更に深いものへと変わっていくのに、大した時間はかからなかった。
彼の方も、もしかしたらそんな私の変化に気付いていたのかもしれない。それでも、私からの『会いたい』というメッセージに対して彼からの拒絶はなかった。
いざ目の前で見たときの幸一について覚えているのは、やっぱりその整った顔だった。爽やかな笑みで挨拶されただけで私はすっかり舞い上がってしまっていて。だからそこから距離を詰めていくことに、まったく躊躇いなんてなかった。きっと私自身では止まることなんてできなかったし、彼もそんな私を止めることはなかった。
今にして思えば、良識のある大人ならその時点で私を止めていたはずだとも思わなくはないけれど、もしそんな良識に従ってくれていたとしても私はそれを受け入れなかったに違いない。あの頃の私はそれほどまでに幸一に惹かれていて、極端な話になるけど、彼との時間に比べたらそれまで生きてきた時間なんて何ら価値のないもののようにさえ思えていたのだ。
そうして関係は進んで、大学を卒業してしばらく経った頃、私は彼と結婚した。仲のよかった人たちはほとんど祝福してくれていたし、私の両親もそれは同じだった。私自身も、これから先ずっと幸せな日々が続くのだと心の底から信じて疑わなかった。
だけど、それは思っていたより早く崩れてしまうことになった。
それまでも、何となく幸一からの求めが強引だとは思っていた。私が疲れて眠いときにもいきなり服を脱がせてきたり、家事をしている最中に突然触ってきたりなんてこともあった。だけど、彼がそれほどまでに自分を求めてくれることへの嬉しさもあったし、彼との行為自体に抵抗感はなかったから、多少の強引さは感じていても受け入れることができていた。
だけど、その日は別だった。
その日はずっと気分が悪くて、家事すらままならなくて幸一に任せっきりになるくらいだったし、夕食もほとんど手をつけられないくらい体調が悪かった。早く寝るように勧められてベッドに入っても目が回って寝付けなくて、だから彼が寝室に入ってきたときも、そのまま当然のように服を脱がしてきたときも、意識があって。
何してるのと尋ねたら、別にいいだろと返された。気分が悪くてできないなら自分でするからおとなしく寝てろと言われた。
抵抗しようとしても強い口調で怒鳴りつけられて、萎縮しきって涙だけ流して動けない私の中に、彼は当然のように侵入してきた。夫婦なんだから拒むなと罵られ、興奮しきった熱い息を吹き掛けられて、私はその日、初めて幸一という男のことを怖いと思った。
そんな夜が明けてしばらく経っても、彼への恐怖は治まらなかった。普段は変わらず優しい彼の、それまで知らなかった怖い一面を思い知らされてしまったような、もう二度と戻れない大きな変化。
彼が片手を上げただけで萎縮してしまう。少し低い声で呼ばれただけで震えてしまう。幸一の変化から始まった日々は、とても苦しいものだった。
どんなに優しくされても、彼を怖いと思ってしまった気持ちが晴れることはなくて。
そんな私の心が更に軋むように痛んだのはその数日後――いくら彼との日々を過ごしてもどこか燻り続けている心のうちを知人に相談したとき――、返ってきた答えが私の想像だにしないものだったときだった。
『え、だって夫婦なんでしょ? あんまり嫌がるのにも問題あったんじゃない?』





