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一髪、千鈞を引く。

「ねぇ、おじさん。私の先生になってください」


 やましいところがあったために痴漢冤罪を否定しきれなかった樋口ひぐちつとむは、すんでのところで姪のこだまに助けられた。彼女の要求した見返りは理解しがたく、しかし彼女が彼の唯一のやましさを見透かしていることだけは明白だった。

 完璧に体面を取り繕う彼の、唯一の欠点。毛髪性愛トリコフィリア

 こだまの艶やかな黒髪に魅了されたのもあり、彼女の『先生』を引き受ける勉。言葉通り、勉強を教える役割だったことに一安心するも、彼女がその裏に隠す思惑はそれだけではなく。


 一髪、千鈞を引く。

 叔父と姪であり、社会人と女子高生であり。そんな二人の毛髪で繋がった関係性は、ひどく危ういものだった。

 満員電車に乗り込んだ樋口ひぐちつとむは、目の前の女性の毛髪の香りを楽しむ。今日は当たりだった。


 勉は、社会人になってまだ数年の、一般的な若手サラリーマンだ。真夏の外回りだろうと涼しい顔で引き受けて、若者の特権とばかり体力で稼ぐ男だった。当然、面倒ごとを押し付けたがる上司からの覚えはよく、同期の中では最も将来を有望視されている。

 この日も、彼は勤労意欲を顔面に張り付けて、必死に働いた帰り。降って湧いた仕事の間隙に、「たまには早めに帰りなよ」という上司のありがたいお言葉がやってきて、彼は見事、午後六時に定時退社をすることができた。内心、首をかしげる彼は、やはりその不条理を訴えることはなく、「ありがとうございます!」と営業先に見せるのと同じ笑顔を見せて退社した。


 そんな勉の、疲れ切った心のよりどころこそ、この満員電車だ。

 実のところ、彼にとって午後六時過ぎというのは素晴らしい時間帯なのだ。社会人から大学生、高校生まで、誰もが帰宅の途につき始めるこの時間帯、下り方面の電車はそれはもう混雑する。満員電車という、赤の他人にパーソナルスペースを侵害される不快極まりない環境は、勉に女性の毛髪の匂いを嗅ぐ口実を与えてくれる。

 勉は、毛髪性愛者トリコフィリアだった。

 幼いころから母親の髪をしゃぶって育った彼に、その欲望のすべてを隠し殺して生きることはできなかったし、同様に、かつての交際相手に拒絶された経験から、彼は理解者を作る気も起きなかった。社会人として折り目正しくスーツを着込んだ内側で、一般には歪な欲望を飼いならす必要が彼にはあり、現状、それはうまくいっている。


 百八十センチの、やや高身長な彼は、あらためて自分の前にやってきた女性の後頭部を見下ろした。多少生地のよれた、ブラウスを着た女性だ。年のころは二十代半ばか、もう少し上か。女性向けのビジネスバッグをかけた肩は、疲れを感じさせて重たそう。けれども、女性としての最後の意地か、髪の手入れには余念がないようで、それこそが勉にとっては重要である。

 勉は神経を研ぎ澄ませた。大げさに鼻で息を吸い込んでは、不審に思われてしまうだろう。あくまで冷静にと心がけて、息を吸う。


 一日の終わりの汗のにおいに混じって、柑橘系の匂い。その情報一つで、勉の浴室内に陳列された数多のシャンプーの中から、彼女の使っているシャンプーの候補が絞られていく。もともと、彼女の様子からダメージ補修系を予想していた彼は、一駅の移動の間に答えを割り出した。去年のベストコスメを受賞したシャンプーだ。

 社会人になってからの数年で、数々の毛髪を味わってきた彼からすれば、そのチョイスは少し期待外れではあった。できれば、大多数の意見ではなく、自分の髪質に合わせて選んだことが感じられるものが良かったのだ。

 けれども、一度も染められたことがないのだろう、枝毛もパサつきもない黒髪は貴重だった。勉は降車する人の波に、今の立ち位置を奪われないよう、川の流れに逆らう淡水魚の心地で彼女の後ろをキープした。


 今日は運がいい。最近は残業も多くて機会が少ないから、目いっぱい記憶に残そう。


 勉は心に決めた。定時退社させてくれた上司に、心の中でもう一度頭を下げた。今度は本物の感謝を込めて。

 その結果として彼は、少しその女性に執着しすぎてしまった。二駅、三駅と過ぎて、女性が声を上げる。


「ち、痴漢です……!」

「えっ、いや。僕はそんな」

「今、触られたんです!」


 彼女はぎゅうぎゅう詰めの人垣を渾身の力で押しのけ、そのわずかの空間で振り返り、勉を指さした。彼女は臀部を隠すように抑えていて、当然、勉が毛髪を差し置いて女性の臀部に情欲を催すはずはないから、完全な勘違いなのだが。


「この人、ずっと私の後ろに立ってて」


 女性の訴えの半分があながち間違っていないので、どうにも反論ができない。

 電車はがたんごとんと揺れる。元来静かなはずの電車内が余計に静かに思えて、勉は周囲の視線をより鋭敏に感じた。口をつぐみ、冷や汗を垂らす彼の姿は、いかにも怪しかった。


「ちがっ、違うんです。僕はただ……」

「ただ、なんですか?」


 上ずった声で、しどろもどろになる彼を、女性の鋭い声が追及する。人々はいよいよ女性の言葉を信じ始め、彼女を気遣う人、勉を冷たくにらみつける人、スマートホンを取り出し、何かしらSNSに書きつける人と様々だ。がたん、ごとん。勉にはもう、電車の床が海に浮かぶ板切れのように不安定に感じられた。それは、彼の築き上げた立派な世間体が崩れる不安感だ。

 目の前の女性は、変わらず勉をにらみつけていて。


「あの」


 その時、社内に声が響いた。細い少女の声は、剣呑によどみ始めた空気を切り裂くのに十分だった。僕の脇から、するりと人垣を抜けて、その声の持ち主が現れる。名門校のセーラー服を着た、黒髪の女子高生だ。


「私です。痴漢したの」

「……えっ?」

「聞こえませんでしたか。私があなたのヒップを触ったと。そう言っているんです」


 女子高生は、あまりにも素っ頓狂なことを言う。誰もが唖然としていたが、勉だけはすっと彼女の言葉を信じてしまった。噓がつけるとは思えないほど、滑らかなストレートの髪質だったからだ。そして、勉はその黒髪を見たことがあった。


「こだまちゃん……?」

「しっ」


 こだまは、勉の姪にあたる。

 彼女は勉の呟きにわずかに振り返ると、その唇に短く人差し指を当てて見せた。知り合いだとばれると、庇い立てていることが明白になってしまう。こだまの言外の言葉を読み取り、勉はおとなしく口を閉ざした。


「ねぇ、ちょっと!」

「はい、なんでしょう」


 女性は急に出てきたこだまに腹が立つあまり、その話の素っ頓狂さには気が向いていないようだった。


「その人が触ったって言ったでしょ! だってその人、ずっと私の後ろにいたのよ!」

「それはそうでしょう。満員電車で、わざわざ駅ごとに立ち位置を変える人がいますか」

「あなたみたいな子供にはわからないでしょうけど、性的な目って言うのはわかるのよ?!」

「わかりますよ。こういう髪をしていると、色々勘違いして標的にしてくる人がますから」


 こだまがニヒルな声色で、自分の黒髪を持ち上げて見せる。腰まである長髪は、彼女の言葉に真実味を与えて、論旨とはずれているにもかかわらず女性をひるませた。


「それで言うなら」


 こだまはその隙に言葉を放り込む。


「承認欲求の強い子が、かまってもらいたいがために痴漢冤罪を起こすという話を、私は聞いたことがありますよ」

「んなっ……」


 途端、人々の疑いの目が女性の方に向く。所詮、他人ごとに正義感を燃やす遊びをしたかっただけの人々の意識は、より強い存在感で現れたこだまに掌握されてしまったのだ。女性は目を白黒させ、言葉を詰まらせる。

 その時、僕の手がこだまに引かれた。


「ほら、行きますよ」

「えっ、あぁ!」


 電車は駅のホームについたところだった。勉とこだまは手を引かれるまま電車の中から走り出て、ようやく事態を把握した女性の金切り声を背中で聞きながら、ホームの階段を駆け下りた。そのまま改札を出て、知らない駅前を通り過ぎて。時刻は午後七時を過ぎ、電車が遠く走り去っていくのを見送る。彼らはコンビニの明かりの前で、ようやく一息を付いた。


「どうして――」


 息を切らしながら、勉はこだまに尋ねる。尋ねておきながら、すっかり乱れた黒髪をかきあげるこだまに、どぎまぎと視線を逸らした。


「どうしてって。だって、勉おじさんなら、そうしたでしょう」

「僕なら?」

「そう。いつもぴっちり折り目正しくて、立派な大人の勉おじさんなら」

「……よくわからないけど、とりあえず、ありがとう」


 正直、勉の持つこだまのイメージとは、かけ離れた行動だった。彼女は親戚の集まる場では、なるべく部屋の隅で目立たないようにしているような、とても淑やかな子だ。

 それに反して、今日の彼女には苛烈さが見えた。布団を燃やした時のように、内側でいつまでもくすぶり続ける、芯の強さだ。


「それにしても」

「それにしても?」

「勉おじさんがあんな変態だったとは、思いませんでした」

「いや、だから。それはこだまちゃんの言うように冤罪で」

「ほんとうに?」


 互いに息の整ってきたところであったが、勉ののどからはひゅっと息が漏れた。

 彼女の黒髪はそれこそ、夜空のようにきれいな闇色をしていて、街並みの光を背景に、それこそ夜空を背負っているような様子だ。その夜空が、僕をまっすぐに見上げている。頭一つ分の身長差は、勉の優位を全く保証してくれない。


「勉おじさん。あの女の人の髪の匂い、嗅いでましたよね」

「そ、そんなこと」

「ありますよ」

「何を根拠に」


 こだまの声は確信に満ちている。彼女は勉を尋問しているのではない。彼女の手元にはすでに、勉の罪状を書き連ねた書面が山と積み上げられていて、彼女は判決の木槌を振り下ろすだけだという、そういう口ぶり。勉のせめてもの反抗の声は震えている。


「だって勉おじさんは。いつも私の髪、物欲しそうに見ていたじゃないですか」


 勉にはもう逃げ道などなかった。


「私は嬉しいんです。勉おじさんの意外な一面が見れて」


 こだまがずいと距離を詰める。


「ねぇおじさん。今日のこと、秘密にしてほしいですよね。だったら――」


 勉の嗅覚が、こだまのシャンプーの香りを捉える。甘い、蠱惑の香り。


「私の先生に、なってくれませんか」


 彼には、頷く以外の選択肢がなかった。

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