第八十九話
消えた視界が戻った時に四朗が見たものは、どこまでも続く青い空だった。その青い空以外には目に入ってこない。どうなってるんだと後ろ足を踏ん張ろうとしたが伸びただけで地面に触れた感触は無い。思わず下を見れば地面は遥か下だった。
「にゃにゃにゃにゃ!!」
四朗が叫ぶ前にチェルナの声が響く。声のした方を見れば、妙齢で、濃いめの化粧をした「マダム」と言いたくなる女性がチェルナを抱っこしていた。彼女の豊満なおっぱいにチェルナが乗せられている錯覚を起こしてしまうほどには、デカい。艶やかな赤い髪をそのまま肩に垂らし、体の張り付いているとしか思えない程ぴっちりとした真紅のマーメイドドレス姿だ。紅玉の瞳を湛えた切れ長の目は細められ、四朗を見つめてきていた。
「……えっと、どなた? それに女の子は?」
叫ぶのも忘れ、前足をだらんとぶら下げたまま、四朗は彼女を見て呟いた。
「あら、似てないかしら?」
マダムがニコリと口もとに緩やかな弧を描いた。猫になったはずの四朗の背中の毛がゾワゾワっと逆立ち、雄としての何かが危険を知らせるアラームを鳴り響かせる。
四朗が彼女の頭から足元まで視線をやれば、赤い箒の柄にテカテカの真っ赤なハイヒールで立っているのがわかった。そのマダムは頭の先からつま先まで赤で統一されている。
そしてそんなセンスを好む女性を、四朗は一人知っている。顔を凝視すれば頭に答えが浮かんだ。
「エイラの、お母さん?」
「あらやだ、私はそんなに若くないわよ。あの娘のおばあちゃんよ」
エイラの祖母だと言うマダムが嬉しそうに頬をほころばせる。四朗の逆立った毛は収まらず、白いポンポンのようにふくれていた。
「おばあ……ちゃん?」
四朗には彼女が見た目アラサーのフェロモン溢れる悩殺マダムにしか見えない。猫になった四朗ですらそう思わずにはいられない程、女だった。
「そうよ。ほら大事な子猫ちゃん返すわよ」
マダムが胸に抱えていたチェルナをぽいっと放って寄越した。
「にゃーー!!」
「ちょ、まてぇー!」
恐怖で体の毛を逆立てたチェルナは悲鳴を上げながら放物線を描いて四朗に向かってくる。四朗は前足をめいいっぱい広げ、飛んで来るチェルナを体で止めた。
「こわかったのじゃー! 死ぬかと思ったのじゃー!」
尻尾まで使ってチェルナがひしと抱き付いてくる。四朗も落とすまいと尻尾をチェルナの体に巻き付けた。
「なに……」
すんだ、と続けようとした四朗の眼の前に、マダムはいた。しかも目線が同じ高さになっており、艶めかしい紅玉の瞳が四朗を見て細まっていくのだ。四朗は言葉を告げず、下あごをだらりとぶら下げた。
「私はステラ。エイラのぷりちーなおばあちゃんよ」
ステラと名乗ったマダムは、そのぷりぷりの唇を尖らせ、右手でちゅっと投げキッスを飛ばしてきた。




