5.お飾り妻は味方ができた
いくらも間を置かず、馬小屋には数人の人々が駆け込んできた。先頭はジャン、その後ろに数人の男性使用人、最後尾は2人のメイドに両肩を支えられたリリアだ。
ドラゴンを間近で見た恐怖を引きずっているのだろう。リリアは真っ青な顔で唇を震わせている。
ジャンはラフィーナを見るや否や声を荒げた。
「ラフィーナ! ここで何をしている!」
「猫に餌をあげていました」
ラフィーナは迷うことなく答えた。馬小屋にいる理由を尋ねられたら、そう答えようと決めていた。
ジャンは怪訝そうな表情を浮かべた。
「猫? その猫はどこにいるんだ」
「皆さまの足音を聞いて、逃げていってしまいました」
淀みない答えに納得がいかないようで、ジャンはラフィーナに歩みよってきた。そしてラフィーナの身体を強引に押しのけ、木箱の陰に作られた寝わらの寝床を見下ろした。ラフィーナがギドのために用意した寝床は、猫の物と偽っても不自然のない大きさだ。
「……リリアが、馬小屋で化け物を見たと言っている」
「化け物、ですか? 私は見ませんでしたが」
ラフィーナがしれっと答えると、ジャンは眉をつり上げた。
「リリアが嘘を言うはずがないだろうが! お前がリリアをいじめるために何かしたんだろう。何か、例えばそこの壁に化け物の絵を描くとか……」
ジャンの声は段々と自信をなくし、最後の方は尻すぼみになった。
リリア贔屓のひどいジャンでも、さすがにこの例えには無理があると気付いたのだろう。
馬小屋の中には馬を世話するため以外の物は置かれていないし、壁には数本の道具が立てかけられているだけ。化け物に見間違えそうな物はなにもない。
ジャンは、リリアに疑うような視線を向けた。しかしぶるぶると震えるリリアの唇を見て、またラフィーナにするどい眼差しを向けた。
「それでも、お前が何かしたに決まっているんだ。お前が、お前が……」
ラフィーナは、盲目的にリリアを庇おうとするジャンを冷静に見つめた。
(……この人は、真実を見極めたいのではなく、リリア様の主張を正当化したいだけなのね。例えリリア様が人を殺したとしても、その行いを悪とは認めない……哀れな人)
ジャンに対して『哀れ』という感情を抱いたことに、ラフィーナは自分で驚いた。
ラフィーナはずっと、自分がジャンよりも格下の存在だと思い込んでいた。逆らうことも、抗うことも考えられなかった。
しかし今は、盲目的にリリアを信じようとするジャンがひどく愚かで、矮小な存在のように思えてならなかった。愛こそが世界の全てだと信じ、現実を見ることができなくなってしまった哀れな人。
そう思えるようになったきっかけは、恐らくギドとの出会いだ。突如として日常に舞い込んできだドラゴンは、淀んだ水面に石を投げ込むようにラフィーナの世界を揺らした。
ラフィーナが世界の全てだと思っていたものは、しょせん広大な世界のたった一部でしかなかったのだ。常識が、根底が、覆っていく。
「ええい! ここで何があったかなど知ったことか! いいからさっさとリリアに謝れ!」
ついにジャンは、理由もわからないままリリアへの謝罪を求める始末だ。
ラフィーナはそんなジャンを冷めた目で見つめた。話の通じない相手と会話をする意味などないのだから、形だけの謝罪をしてこの場を収めようかとも考えた。
そのとき、ラフィーナに助け船を出したのは意外な人物だった。
「ラフィーナ様は……何もしておられないと思いますがねぇ。非のない人物に無理やり謝罪をさせるというのは、いかがなものかと思いますが」
がさがさとしたしゃがれ声で、しかし不思議とよく通る声でそう言ったのは、カールトン家に勤める老齢の使用人――名をトマという――だった。ラフィーナがギドを連れ帰ったあの日、馬車の御者を務めていた人物だ。
トマが口を開いたことにラフィーナは驚き、そして正論をぶつけられたジャンは明らかに狼狽した。
「し、しかし怪しいではないか! こんな人気のない馬小屋でこそこそして……猫の話だって本当かどうかわかったもんじゃない」
「ラフィーナ様が猫を飼われていたのは本当ですよ。数日前、ルネ・セラフィム修道院を訪れた帰り道で拾われたのです。雨に濡れて凍えていた黒猫を」
(……黒猫?)
ラフィーナの心臓は跳ねる。先ほどジャンから馬小屋にいた理由を聞かれたとき、ラフィーナは猫に餌をあげていたと言ったが、黒猫だとは言わなかった。
動揺するラフィーナの目の前で、ジャンとトマの会話は続く。
「そ……いや、猫の話は事実だったとしてもリリアをいじめたのは本当じゃないか。か弱いリリアを驚かすような真似を……」
トマは呆れたように息を吐いた。
「逆にお尋ねしたいのですが、リリア様はどうして馬小屋にいらっしゃったんでしょうかねぇ。普段は『馬なんて臭い、汚い』と言って絶対にお近寄りにならないのに。まさかラフィーナ様がここにいることを知った上で、嫌味を言うためにわざわざやってきたなんてことは」
「――貴様! 雇われの身の分際で、リリアを侮辱する気か!」
ジャンは顔を真っ赤にしてこぶしを振り上げた。
しかし途中ではっと顔色を変えると、ぶるぶると震わせながらもこぶしを下ろした。入り口付近に溜まっていた数人の使用人を押しのけて、リリアに声をかけることもせず馬小屋を出て行ってしまう。
場をまとめるジャンがいなくなってしまったので、残された人々もぱらぱらと解散した。元よりリリアの悲鳴に呼ばれてわけもわからず馬小屋に集まってきた人々だ。最初から最後まで、狐につままれたような顔をしていた。「結局、何だったの?」「リリア様の勘違いってことだろ」そんなやりとりすら聞こえてくる。
リリアはジャン以上に顔を真っ赤にして、怒りと屈辱で全身を震わせていた。カールトン家にやってきてからというもの、ジャンの愛情を一身にうけ、どんな我儘も横暴なふるまいも許されてきたリリア。皆の前で発言を否定されたり、嘘吐き扱いされるのは初めてのことだろう。
トマの顔をここぞとばかりに睨みつけ、馬小屋を出て行ってしまった。
馬小屋の中に残された人物はラフィーナとトマ、そしてスカートの中に隠れたギドだけ。
ラフィーナはトマを相手に、遠慮がちに探りを入れた。
「あ、あの……なぜ私が黒猫を拾ったことを知っているの?」
「……ラフィーナ様が猫を拾うところを見ていたからですよ。1人で森の中に走っていかれたので、危険があってはいけないと思い追いかけたのです」
「そうだったの……」
そうだとすれば確かに説明はつくが、ラフィーナにはもう一つ気になることがあった。
「どうして、私の味方をしてくれたの?」
トマはラフィーナがドラゴンを匿っていることを知っていた。しかしそのことを誰にも言わなかった。使用人仲間にも、主であるジャンにもだ。
さらに今日はドラゴンの存在を隠しながらラフィーナの援護までしてくれた。トマがくだらない言い合いに口を挟んでくれなければ、ラフィーナは今頃リリアに謝罪させられていたことだろう。ジャンの気分によっては、二度と馬小屋に近寄るなとまで言われていたかもしれない。
状況を悟ったようで、スカートのすそからギドが顔を出した。トマはギドの顔を一瞥したが、存在について触れることはなかった。視線を移ろわせながらラフィーナの質問に対する答えを探す。
「……ラフィーナ様だけ、ですからね。御者を務めた私に『ありがとう』と言ってくださるのは」
「――え」
「そんな単純なことで、人の忠誠心とは移ろうものなのですよ。私はジャン様の父君には忠誠を誓っておりましたがねぇ。今のジャン様に心から仕えたいとは思えない。仕事もしない、礼の一つも言えない、愛人と遊び呆けているだけの当主になど」
トマはのんびりとした足取りで扉の方へと向かっていった。その途中でもう一度ラフィーナの顔を見た。
「私の処遇に関しては気になさらないでください。ジャン様は口答えした私を解雇しようとなさるでしょうが、そんなことはできません。私はジャン様の父君と懇意にしておりましてね。私を解雇することは、ジャン様にとって父君に逆らうと同義ですから」
ジャンの父親であり、先代の辺境伯であるジョージ・カールトン。病気を理由に当主の座をしりぞき、現在は別邸で療養生活を送っている。ラフィーナは結婚に際し一度だけ顔を合わせたことがあるが、込み入った話をした経験はない。
しかしメイドたちの評判を聞くに、ジョージ・カールトンは辺境伯として非常に優秀な男だったのだという。隣国との関係に常に気を配り、平和な世でも戦争への備えを怠らなかった。妻以外の女性にうつつを抜かすこともなく、メイドたちとも良好な関係を築いていた。
そんな非の打ち所がない人物であるからこそ、ジャンは実の父親であるジョージを恐れている節がある。己の無能さが露見し、当主の座から引きずり下ろされることに怯えているのだ。
ならば少しはまともに仕事をしろ――といつもラフィーナは思うわけなのだが。
トマはそれきり何も言わず、馬小屋から出て行ってしまった。
ラフィーナはギドをスカートから出すことも忘れて立ち尽くしていた。
敵ばかりだった世界に、また一人味方が出来たようで嬉しかった。




