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3.お飾り妻はドラゴンとおしゃべりをした

 馬車が屋敷に到着する頃には、太陽はすっかり暮れてしまっていた。冷たい夜風がさわさわと音を立てて吹き抜けていく。

 ラフィーナはドラゴンを座席の下に隠し、馬車を降りた。それから馬のくつわを外そうとしていた御者に向かって話しかけた。


「今日は遅くまでありがとう。片付けは私がしておくから、もうあがっていいわ」

「へぇ? しかし……」


 老齢の御者は見るからに戸惑った様子だった。書類上だけの存在とはいえ、ラフィーナは立派な辺境伯夫人。馬車の片付けや、馬の世話をさせるのは気が引けるのだろう。

 御者を説得するためにラフィーナは笑った。


「私、馬の世話は得意なの。カールトン家にくる前は、自分の馬の世話は自分でしていたんだから」

「は、はぁ……奥様がそう言うのでしたら、お言葉に甘えさせていただきます……」


 御者はぺこりと頭を下げると、外しかけの馬具をそのままにして屋敷へと向かっていった。今日は長旅だったから、彼もさぞや疲れたことだろう。


 ラフィーナは、馬具を外した2頭の馬に丁寧にブラシをかけた。馬小屋に入れ、たっぷりの水と餌を与え、「お疲れさま」と声をかける。

 

 ラフィーナは小さい頃から動物が好きだった。男爵家の領土は自然が豊かな土地で、屋敷のまわりにはリスやウサギといったたくさんの動物たちが住んでいた。12歳の誕生日に買ってもらった自分の馬に、自分でブラシをかけるのも毎日の楽しみだった。

 

 あの馬は今もエニス家の馬小屋にいて、ラフィーナのことを恋しく思ってくれているのだろうか。


(……と、考えすぎちゃったわ。早くドラゴン寝床を作ってあげないと)


 ラフィーナは少し考え、馬小屋の隅に寝わらを敷きつめた。たくさんの木箱の陰になった場所だから、簡単に他人の目に触れることはない。

 寝わらの真ん中にくぼみをつくり、そこに馬車の中で使っていた膝掛けを敷けば、居心地の良さそうな空間ができあがった。ドラゴンを馬小屋に置き去りにすることは後ろ髪を引かれたが、他に方法は思いつかなかった。


(これで良し、と。本当は部屋の中に連れていってあげられればいいんだけど……メイドに見つかったら大騒ぎになってしまうものね)


 馬車に隠していたドラゴンを寝わらの寝床にのせると、ドラゴンはそこが気に入ったようだった。猫のように身体を丸め、くぁぁとあくびを一つ。そのまま動かなくなってしまう。


 間もなくして、ドラゴンの身体が淡く輝きはじめた。月の光が集まってきたかのように美しく、そして不思議だ。

 ラフィーナはまばたきをすることも忘れてその光景に見入った。鱗の剥がれた部分がとりわけ強い光を放っているから、傷口の回復をはかっているのかもしれない。


(明日の朝、様子を見に来ましょう……)


 ラフィーナはドラゴンを起こさないように、足音を潜めて馬小屋から出た。

 

 屋敷に戻ると、食事よりも先にジャンの部屋を訪れた。今日、ユクト司祭から聞いたことを報告しなければならないと思ったからだ。

 もしも本当にイオラ王国が戦争の準備をしているのだとすれば、カールトン領は戦火の最前線となる。領民から兵を徴集するのも、戦争に備えた物資を蓄えるのも、すべて辺境伯であるジャンの仕事だ。怠ればカールトン領が壊滅するどころか、王国全体に戦争の被害が広がることになる。


 ラフィーナが部屋の扉を叩くと、数秒おいてジャンが顔を出した。1日を終えてくつろぎモードのジャンは、ラフィーナの姿を見るとあからさまに迷惑そうな顔をした。


「……何の用だ」

「先ほどルネ・セラフィム修道院から戻りましたので、ご報告にあがりました」

「ああ……」


 ジャンは興味なさげに相槌を打った。

 自分がすべき仕事を押しつけたというのに、ねぎらいの言葉一つ口にしない。これもいつものことなので、今さら悲しさや惨めさを感じることはなかった。

 

 ラフィーナはユクト司祭から受け取った書類を手に、報告を始めた。


「ユクト司祭はおっしゃることには、最近、イオラ王国で――」


 ジャンは面倒臭そうにラフィーナの報告をさえぎった。


「ここで長々とした報告を始めるつもりか?」

「え? ええと、ではどこか椅子のあるところに……」

「そういうことではない。これからリリアと酒を飲むところだったんだ。少しは気を遣ったらどうなんだ」

「え……」


 ラフィーナは扉の隙間から部屋の中を覗きこんだ。

 そこには確かにリリアの姿があった。ネグリジェ姿でソファの片端に腰かけ、右手にはワインの入ったグラスを持っている。ラフィーナを見つめる眼差しからは、優越感がひしひしと伝わってきた。私ばかり楽しい思いをさせてもらって申し訳ないわね――と。


 ジャンは唖然とするラフィーナの手から書類を奪い取った。


「暇なときに目を通しておく。こんな時間にお前の顔など見ていたくないから、さっさと立ち去れ」

(こんな時間になるまで仕事をさせているのは、あなたじゃないの……)


 ラフィーナが唇を噛む間に扉は乱暴に閉められ、間もなくして部屋の中からは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。上機嫌なジャンの声と、甘えたようなリリアの声。

 2人とも、書類を届けにきたラフィーナのことなどすでに忘れてしまったに違いない。


(書類、ちゃんと見てもらえるかしら……)


 不安を覚えながらも、ラフィーナにできることはもう何もなかった。

 あの大切な書類が、ジャンの机の上に積みあげられたたくさんのゴミの中に埋もれてしまわないことを祈るばかりだ。


 ◇


 翌朝、目を覚ましたラフィーナはすぐに馬小屋へと向かった。まだ日は昇りきらない時間だが、ドラゴンがどうしているか気になって仕方がなかった。


 だから昨晩作った寝床にドラゴンの姿が見えなかったときは、ひどく狼狽えた。

 

(どこへ行ってしまったのかしら……まさかもう傷が癒えて、どこか遠いところへ飛んでいってしまったの?)


 ドラゴンが元気になったのだと思えば嬉しいが、同時に寂しさも感じた。あの小さなドラゴンが、ラフィーナの生活に新しい風を呼び込んでくれるような気がしていたからだ。惨めなだけの日常にほんの少しだけ楽しさを与えてくれるんじゃないか、と。


「仕方ない……わよね……きゃっ」


 突然、馬小屋の中に風が吹き込んだ。のんびりと草を食んでいた馬たちが、驚いて鼻息を荒くする。

 その馬たちの間を縫って、黒いドラゴンがラフィーナ目がけて風のように飛んできた。ラフィーナは驚き、とっさに手を伸ばしてドラゴンを抱き留めた。つるつるとした鱗が肌に触れる。


「すごい! もうこんなに元気になったのね」

『ああ、お前が助けてくれたおかげだ!』

「……え?」


 どこからか知らない声が聞こえたので、ラフィーナは驚いて辺りを見回した。しかし早朝の馬小屋には他に人の姿はなく、数頭の馬たちがそこかしこに立っているだけ。他に生き物がいるとすれば――ラフィーナの腕の中にいるドラゴンだ。半信半疑で問いかけた。


「あなた……もしかして人間の言葉がしゃべれるの?」


 ドラゴンははっきりと返事をした。


『しゃべれるとも。俺はただのドラゴンじゃなくて竜人(ドラゴニュート)だからな』

竜人(ドラゴニュート)?」

『人間とドラゴンが半分ずつってことさ』

「そうなの……」


 ラフィーナは夢見心地で腕の中のドラゴンを見つめた。

 伝説上の生物であるドラゴンが目の前にいるというだけでも驚きなのに、まさか意思疎通までできるなんて。竜人(ドラゴニュート)という種族を、ラフィーナは本の中でさえ見たことがなかった。


『……その顔、俺が竜人(ドラゴニュート)だということを疑ってるな?』

「え? ええと、そういうわけでは……」

『見てろよ! 証明してやるから!』


 そう言うが早いか、ドラゴンは空中で翼をばたつかせた。

 

 次の瞬間、ぽんっと軽快な音がしてドラゴンは人間の子どもへと姿を変えた。烏の羽のように真っ黒な髪の毛と、黒曜石のように黒々と輝く瞳。頭の上には2本の角が生えている。黒いローブで覆われた身体は、ラフィーナの腕にすっぽりと収まってしまうくらい小さい。思わず頬ずりをしたくなってしまうような愛らしさだ。

 背中に生えた左右の翼だけが、ドラゴンの姿だったときと同じ形のまま。


「ほらみろ! 竜人(ドラゴニュート)だろう!」


 目の前の子どもは、背中に生えた翼をばたつかせながら自慢げに言った。ドラゴンの姿だったときに比べて重さが増したためか、ふわふわと宙に浮く姿はどこか頼りない。ちょっとでもバランスを崩したら地面に落ちてしまいそうだ。


「そ、そうね、確かに竜人(ドラゴニュート)だわ……」


 ラフィーナは曖昧に返事をすることしかできなかった。竜人(ドラゴニュート)という種族がいることさえ今日初めて知ったのだから、竜人(ドラゴニュート)がどんな種族かなんて知るはずもない。

 ぱちぱちと目をまたたかせながら、小さな翼をはためかせる竜人(ドラゴニュート)を見つめた。


竜人(ドラゴニュート)は、みんな人の姿になれるの?」

「そうだ」

「どちらが本当の姿なの? ドラゴンの姿と、人間の姿」

「変なことを言うんだな。ドラゴンの姿も、人間の姿も、どっちも俺だ。どっちが本当の姿かなんて、そんなことは考えない」

「そうなの……」


 そこまでの会話を終えて、ラフィーナはまだ大切なことを尋ねていないことに気がついた。

 

「ねぇ、あなたに名前はあるの?」


 子どもは胸を張って答えた。


「ギド」

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