10.お飾り妻は空のかなたに消えることにした
ラフィーナとギドは屋敷の園庭へと下りた。
園庭の片隅にはラフィーナがギドをかくまっていた馬小屋があり、そばにはトマが立っていた。
河原で馬に水浴びでもさせていたのだろうか。トマは右手で馬の手綱を引きながら、損壊した屋敷の壁を口を開けて見上げていた。
「トマ!」
「ああ、ラフィーナ様。あの屋敷の壁は何があったんです?」
ラフィーナは息を整え、はやる気持ちを抑えて話し出した。
「トマ……落ち着いてよく聞いてほしいの。イオラ王国の兵士たちがこの屋敷に向かってきているわ」
「……何ですって?」
「ギドが、空を飛んでいるときに見たのよ。馬に乗っているからスピードが速くて、もう一刻の猶予も残されていない」
トマは慌てふためいた。
「それは……大変なことだ。すぐに屋敷の者に伝えて避難を――いや、私兵団に伝令を送るのが先か? 何にせよ、一度みなをここへ集めましょう!」
(良かった……やっぱり、トマは私の言うことを信じてくれる)
ラフィーナは自分の主張が受け入れられたことに安堵した。とはいえトマが味方に突いてくれたところで、状況が好転するとは到底思えなかった。
カールトン家の屋敷の中で、トマの立場は決して強くない。王宮に勤めていたという経歴はあるが、必ずしも良い方向には働いておらず、どちらかといえば『かつてのお偉い様が楽な余生を楽しんでいる』という見方をされている。
もちろんトマはすべき仕事はしっかりとこなしているのだが、老齢ということもあり若いメイドたちからは嫌煙されている節があった。
さらに悪いことに、トマがラフィーナと仲良くしていることは屋敷中に知れている。2人が口を揃えて「イオラ王国の兵士が攻めてくる」と騒いだところで、信じてもらえる可能性はゼロに近いだろう。
残された道が、あるとすれば――
「トマ……ジョージ様とダイアナ様が、ルネ・セラフィム修道院へと向かわれている。すぐに追いかけて事情を説明してちょうだい。この屋敷の人々は私の言葉を信じないけれど、ジョージ様ならばあなたの言葉を信じるでしょう」
ラフィーナが決意を固めた口調で伝えると、トマは驚いた顔をした。
「それは、確かにそうかもしれませんが……」
「ジャン様は戦のことなど何も考えていなかった。指揮を任せたところで、兵士の動かし方も、領地の守り方も何もわかるはずがないわ。でもジョージ様なら――きっとこの国にとって最善の選択をしてくださる」
ジョージ・カールトン辺境伯は、平和な世でも戦への備えを怠らなかった。たとえ5年間病に伏せていたのだとしても、ジャンとどちらが頼りになるかなど比べるまでもない。
トマもすぐにラフィーナと同じ考えに至ったようで、連れていた茶色の馬に慌ただしく飛び乗った。御者を務めるトマは馬の扱いに長けている。ジョージとダイアナは馬車に乗っているはずだから、単騎で飛ばせばさほど時間はかからずに追いつくことだろう。
トマが驚く馬をたしなめる間に、ラフィーナは屋敷に戻ろうとした。駄目元でメイドたちに避難を促そうと思ったからだ。気絶したままのジャンも起こさなければならない。
しかしラフィーナは屋敷へ戻れなかった。隣に立っていたギドに、突然、軽々と抱きかかえられてしまったからだ。
「きゃ――」
突然の出来事に慌てふためくラフィーナに、ギドは強い口調で言った。
「ラフィーナ。俺はもう、これ以上は待たない」
「待って。屋敷の人たちを避難させないと――」
「駄目だ。この屋敷の連中は、ラフィーナの言葉に耳をかたむけようとしない。助けようとしたところでできることは何もない。俺はもう、ラフィーナが悲しむ顔が見たくない」
「っ……」
ラフィーナが何も言い返せずにいると、ギドはトマに言葉を向けた。
「ラフィーナは連れて行く。この国に、ラフィーナが幸せになれる場所はないのだから」
トマはギドの顔をまじまじと見つめた。ギドの正体にはすぐに思い至ったようで、ふっと表情を柔らかくした。
「ええ、私もそうするのが良いと思います。ラフィーナ様、あなたはこれまで人の何倍もの苦労を経験された。これから先は、どうぞ自分の幸せのために生きてください」
「トマ――」
ラフィーナがトマの名前を呼ぶのと、トマを乗せた馬が走り出すのはほとんど同時だった。そしてラフィーナを抱きかかえたギドが、巨大なドラゴンに姿を変えるのも。
ドラゴンは翼を数度はためかせ、突風のように空へと舞い上がった。
◇
「すごい……森の木々があんなに小さくなってしまった……」
ラフィーナはギドの背中の上から、今はもう遠く離れてしまった大地を見下ろしていた。
青々と茂る森のあちこちには、いくつかの家屋が寄り集まった集落が点在している。あの集落に住む人々は、大空を横切るドラゴンをどんな気持ちで見上げているのだろう。
王国に語り継がれているドラゴンの伝説は、きっとこんな風にして生まれたのだ。
(あ――)
大地に砂埃があがるのが見えた。目を懲らして見れば、緑の森を分かつようにして作られた道をたくさんの馬が駆けていた。背中には武装した兵士を乗せている。イオラ王国からやってきた兵士達だ、とすぐに気がついた。
そして彼らが向かう先にはカールトン家の屋敷がある。
武装した兵士たちは間もなくカールトン家の屋敷を攻め落とす。ルーズヴァルト王国への侵略を目論むのなら、国境防衛と軍事指揮を担うカールトン家を真っ先に狙うのは当然の考え方だ。
「あれだけの数の兵士に攻められたら、屋敷の人々は誰も助からないわ……」
ラフィーナは風で巻き上がる髪の毛を抑えながら茫然とつぶやいた。
目を閉じれば、先に待ち受ける惨劇が瞼の裏に浮かぶようだった。正常な判断力を持つジョージとダイアナはルネ・セラフィム修道院へと向かってしまった。襲撃に気がついたところで屋敷の全員が逃げ出せるだけの馬はいないし、満足に戦えるだけの武器もない。
ラフィーナがカールトン家に嫁いできた当初、屋敷の一角には武器庫があった。有事の際にはメイドと使用人たちが屋敷を守れるだけの武器を準備し、その武器を扱えるだけの訓練も行われていた。
戦争を軽視するジャンが、全てを変えてしまったのだ。武器庫の武器は手入れを怠り、錆びた物から捨ててしまった。面倒だとの理由で戦うための訓練も止まり、ジャンに反論した使用人たちは1人残らず辞めさせられてしまった。
せめてまともな武器があり、戦える人がいれば、屋敷を攻められたとしても命だけは守ることができるだろうに。
(5年間に渡るジャン様の怠慢は、巨大な刃となってカールトン家の屋敷に返ってきた。自業自得だわ……)
巻き込まれる屋敷の人々を思えば憐れみが募るが、ラフィーナにはもうどうすることもできなかった。
ラフィーナは確かに伝えたのだ。イオラ王国の兵士が攻めてくると。すぐに逃げなければならないと。生き残るための忠告を無視したのは彼らだ。
「ギド……これからどうするの?」
悲しい気持ちを振り払うようにラフィーナは尋ねた。声を張り上げなければ、風の音に掻き消されてしまいそうだ。
ギドは翼をはためかせながら答えた。
『国に帰る』
「国って……まさか竜人の国?」
『そうだ』
「私も連れて行ってもらえるということ?」
『そうだ』
ギドの答えは淀みない。
ラフィーナは不安になった。
「私は……ギドと一緒に行ってもいいのしら」
『一緒に来ては駄目な理由があるのか?』
軽い調子で問い返されてしまい、言葉に詰まる。
「……私は人間だわ。竜人ではなくて」
『そうだな。ラフィーナを連れて帰ったらみんな驚くだろう。でも人間だという理由でラフィーナをいじめたり、国から追い出そうとしたりはしない』
「……これから戦争が始まろうというのに、私だけが国を捨てて逃げ出すなんて無責任だわ」
『危険な場所から逃げるのは当然のことだろ? 何を躊躇することがあるんだ』
ギドの声は本当に、ラフィーナの行動を無責任だとは思っていないようだった。
ラフィーナは、また自分の中の価値観がくつがえっていくのを感じた。
カールトン家に嫁いでからというもの、ラフィーナはたくさんの物を守ることに必死だった。例えばそれはジャンの当主としての地位だったり、愛人であるリリアの居場所であったり、両親の貴族としての生活だったり。
そして今もまた、戦争が始まろうとする国で何か守れるものはないかと頭を悩ませている。
誰かの幸せを守ることに力を使いすぎて、気がつけば自分がボロボロになっていた。ギドに言われるまでそのことに気がつかなかった。
「私……何もかも捨ててしまっていいのかしら」
『持っていても苦しいだけのものなら全部捨ててしまえ。代わりのものなら俺がいくらでも与えてやる。ラフィーナが幸せになるために必要なものだけを』
ギドは身体をかしげて旋回した。ラフィーナは振り落とされないように、しっかりとギドの背中にしがみついた。
澄んだ風が頬にあたる。どこかで鳥の鳴く声がする。地平線の山脈は山雪の帽子をのせて霞み、波打つ緑の森が太陽の光を浴びて煌めいている。
世界がこんなにも美しいことをギドと出会うまで知らなかった。
『竜人の国を目指す途中で、ラフィーナに見せたい物がたくさんあるんだ。虹色の実をつける大樹があるから、その木の下で一休みしよう。人魚が暮らす湖があるから、その湖で水浴びをしよう。そして国についたら――』
ギドはそこで言葉を句切った。
『俺と番になろう。周りの目をごまかすための仮初めの番じゃない。死ぬまでそばにいてラフィーナを守ると誓う、本物の番だ』
ギドの言葉は、乾いた大地に雨水が流れたように、ラフィーナの心に染み渡った。
名前のわからない感情が芽生えて胸の内側が温かくなる。
ギドと一緒にいれば、いつかこの感情の名前が分かる気がした。
「……うん。一緒に連れて行って、ギド」
ラフィーナはギドの背中に涙を落としてささやいた。
ギドはラフィーナの祖国に別れを告げるように一声いなないた。そして漆黒の翼をひるがえし、ラフィーナを乗せてどこまでもどこまでも飛んでいった。
◇
国歴729年。国土の南方に位置するイオラ王国とのあいだで武力衝突が勃発。
ジョージ・カールトン前辺境伯の尽力により、大規模な戦争への発展は避けられたものの、国土の南方において多数の犠牲者がでた。
なお犠牲者の大半は、国境防衛と軍事指揮を担っていたジャン・カールトン辺境伯の関係者であった。イオラ王国は軍事指揮を乱すため、意図的にカールトン家の屋敷を攻め落としたものと思われる。
以下、犠牲者の氏名と役職を記す。
ジャン・カールトン(辺境伯)
リリア・アグネス(不明)
マーサ・ハワード(使用人)
モナ・クラウザー(使用人)
…
…
なおラフィーナ・カールトン辺境伯夫人については、現在まで遺体が見つかっていない。イオラ王国の兵士団に連れ去られた可能性も考慮し、迅速な調査を進めるものの、手がかりはなし。
消息は不明――
最後までお読みいただきありがとうございました!
え、全然恋愛してないし、むしろここから物語が始まりそうだって?
作者もそう思う!!!
ということで、もしかしたら続きを書くかもしれないです。一応、長編の構想があったりはするので。
そのときはまた目にとめていただけたら嬉しいです!
↓の☆☆☆☆☆評価も、ポチッとしていただけたら励みになりますのでよろしくお願いします!




