逆密室 -蘓原理衣の場合-【壱】
「随分とストライクゾーンが広くなったもんだなあ、襟草」
促されるままに後部座席に体を入れると、奥に腰かけていた女性が口を開いた。
蘓原理衣。
T県警、刑事一課長、警部。
三十二の若さで警部になり、捜査の第一線で活躍する期待のエース。
いや……エース、だった。
襟草が最も信頼する人物のひとりであり、そして――最も会いたくなかった人物だ。
「お前は年上が好きだと思ってたんだがな。二年も経つと、女の趣味も変わるもんだ」
襟草はため息をついた。
「音羽ちゃんはそういうんじゃありません。なんでもかんでも色恋沙汰につなげる癖、やめた方がいいと思いますよ。お里が知れます」
「くく……相変わらず口の減らないやつだ、気に食わねえ」
真っ赤な唇の端を吊り上げて、蘓原は小気味よく笑った。
そして、
「だが、少し痩せたようだな。ふむ……当ててみせよう。体重52㎏。最後に会った時から身長が変わっていないとすれば、172.1cmといったところか。二年前から5kg減っているね。どうだ、当たりか?」
「さあ、体重計なんて最近乗ってないので分かりません」
「いけないなあ、いけないいけない。大方、その体質にかまけてろくに飯も食ってないんだろう。再生したてで胃の中が空っぽであることを鑑みても少々問題のあるレベルだね。そら、チーカマをあげよう。口を開けたまえ」
「……自分で食べられますよ」
「なに遠慮することはない。昔はよくこうやって飯を食べ合っていたじゃなあないか。今更恥ずかしがることなんて何もない」
「さらっと記憶を捏造するの辞めてもらっていいですか。意味ない嘘をつく癖も相変わらず――むぐっ」
蘓原の手が伸び、襟草の口の中にチーカマが差し込まれる。
抗議の言葉は物理的に途切れてしまった。
「うまいか?」
「……チーカマの味がします」
「相変わらずの感想だね。変わってなくて安心したし、変わってなくて悲しいよ」
「……」
口に突っ込まれたチーカマを飲み込むと、襟草は視線を自分の膝の上に落とした。
「……警察、辞めてなかったんですね」
「当り前さ。私が警察を辞めるのは、死ぬ時か結婚する時かのどちらかさ」
「生魚の上に生クリーム乗っけたみたいな表現ですね」
「なあ、襟草」
「なんでしょう」
沈黙を置かず、蘓原は言う。
「変わってないだろう、私は」
「……」
「襟草。私を見ろ」
「……」
「見ろと、言っている」
ほっそりとした手が、しかし予想以上の握力をもって、襟草の顎をつかんだ。
そしてそのまま、引き寄せられる。
端正な顔立ちだ。
けれどその裏側には、炎のような気迫が隠れている。
ワンレンに整えられた髪の毛先からは火花が散るようで。
真っ赤に塗られた唇は、紅蓮の炎、そのものを表しているようで。
吊り上がった眉は、立ち上る陽炎の具現化のようで。
けれど、
「お前が何を気にしているかしらんが、私はこうしてここにいる。お前の体重だって当てて見せた。お前の口に寸分たがわずチーカマだってつっこめた。警察も辞めてない。階級だって下がってない。だから何も気にするな」
目は。
あの美しい、磨きあげられた黒曜石をはめ込んだような漆色の瞳は。
燃えるような闘志をはらんだあの瞳は。
もう、見ることができないのだ。
蘓原は視力を失った。
二年前の、あの日に。
「二年間、ただ私が打ちひしがれているとでも思ったか? 光を失った悲しさに涙して、ただただ枕を濡らしているとでも思ったか?」
「……おみそれしました」
「分かればいい」
蘓原は満足げに言うと、襟草の顎から手を離した。
「……二年間、どこ行ってたんですか?」
「ベルギーだ。あそこの国には盲目の刑事だけで構成された捜査チームがある。聴覚だけで調査するノウハウを、一から叩き込んでもらったよ」
耳を鍛えたんだ、耳を。
蘓原はトントンと自分の耳を叩いた。
声のトーン、言葉遣い、衣擦れ、シートがわずかに沈む音。
世界にはたくさんの音があふれている。
それぞれは些細で微細な情報でも、より集めれば、時に視覚よりも強力な情報になるのだと、蘓原は言った。
「ここ二か月で、二十件は検挙したかな。外していた二年間分の働きは十分できたと思うよ」
「ちゃんと休んでますか」
「猫の手も借りたいくらいの忙しささ。今も何件か難事件を抱えていてね。どれもこれも、一筋縄ではいかなそうだ」
「すみません、そんな忙しいのに来てもらっちゃって」
丸二日の遠泳を終え、意識がもうろうとしていた襟草が、警察よりも先に連絡を取ったのが蘓原だった。
二年間連絡を取っておらず、まだ警察にいるかどうかも分からなかったが――もし繋がれば現状をいち早く解決してくれるだろうと思ったのだ。
それくらい、襟草は彼女のことを信頼していた。
「なに、気にするな。二年間音信不通だったことをチャラにするくらいには嬉しかったからね。それに私も、気になることが――」
と、その時、こんこんと窓ガラスがノックされた。
蘓原が窓を開けると、男の刑事がコンビニ袋を片手に立っていた。
襟草を車に案内してくれた刑事だ。
「お疲れ様です、蘓原警部! 言われたもの、買ってきました!」
「ん、ご苦労。襟草は無糖でよかったかな」
「ええ、なんでも」
食にこだわりはなかった。
喉は渇いていたので、蘓原から渡された缶コーヒーをありがたく受け取り、プルタブを開ける。
「そうだ、紹介が遅れたな。こいつは富士野友嗣。私の部下だ」
「改めましてはじめまして、襟草さん。お噂はかねがね!」
「はあ。噂、ですか……」
運転席に座った富士野は、振り返りながら手を差し出した。
握り返してくる力が想像の三倍強かった。
体育会系のにおいがする。
握手を終えたタイミングで、蘓原は言う。
「悪いが、お前のことは話してある。簡単にだがな」
「そうですか」
「心配するな。そいつは口も堅いし義理堅い。おまけに私に弱みも握られてるから、信頼できる」
「よ、弱みが握られてなくたって誰にも言いませんよ!」
富士野はあせったように両手を動かした。
蘓原が上司だと色々苦労するだろうなと、襟草は富士野に同乗した。
「――にしても襟草さん、思ってたよりずっとお若いんですね。勝手に、警部の三つ下くらいの年齢と思ってました」
「どうしてですか?」
「だって襟草さんのこと話すとき、蘓原警部めちゃくちゃ嬉しそうに痛い痛い痛い!!なんでつねるんですか警部!!」
「いらんことは言わんでいい」
富士野の頬から手を離し、「そもそも」と蘓原は続ける。
「前にも話しただろう。襟草と初めて会ったのは三年前。まだこいつが成人にもなっていない頃合いだと」
「言ってましたっけ?」
富士野が首をひねる。
少し間を空けて、蘓原も首をひねった。
「言ったさ。たしか……多分、おそらく。まあ確実とは言えないが、はっきりしないところもあるとはいえ、まあ、スズメの涙くらいの確率で、言ったはずだ」
あ、言ってないなこれ。
「じゃあ俺が忘れてるだけですね。すみません」
なんでそうなる。
「仕方ない。もう一度話してやるから、今度は忘れないように」
「ありがとうございます!」
従順すぎるだろ、大丈夫かこの人。
それに――
「別にわざわざ話さなくてもいいんじゃないですか? そんな面白い話でもないですし」
襟草が言うと、「まあそう言うな」と蘓原はたしなめた。
「折角の二年ぶりの再会だ。ゆっくりじっくり、昔話に花を咲かせながら、旧交を温めようじゃないか。それにこの話は――私が君に聞きたいことと、少なからず関わっている話でもあるしね」
「僕に聞きたいこと……?」
今度は襟草が首をひねる番だった。
前置きしてまで問われることなど、とんと身に覚えがない。
「ま、その話は追々と。とにかくまずは、三年前の話をしようじゃないか。これがまた、中々奇妙な事件でねえ」
「奇妙、ですか」
「ああ。そうだな、あの事件を簡潔に端的に、さくっと一言で言い表すならば――」
しばし考え、そして蘓原はポンと両手を叩いた。
「逆密室事件、とでも呼ぶのがふさわしいかな」




