月並みな子供たち -桜井音羽の場合-【肆】
子供たちの首に数字を見つけた時、そして、犯人たちの狙いが分かった時。
襟草の中には既に一つの解決策が浮かんでいた。
十人の子供と一人の青年を乗せた小型船。
燃料もなく、食糧すらろくにない閉鎖空間で、子供たちは青年を殺害する。
子供たちの首には数字が書かれており、並べ替えることで文章が浮かび上がる。
字面だけ見れば、苛烈でセンセーショナルな内容だ。
そう、字面だけ見れば。
一度、この事件の要素を整理してみよう。
襟草を殺した。これは分かる。
その死体と子供を一緒に船に乗せて、海の上に放置した。これもまだ分かる。
動機が何かはさて置いておくとして、少なくとも犯行や死体を隠す方法としては悪くない。
ここまでは、犯人の思考としては一貫性がある。
では、暗号を仕込んだ理由はいったい何なのだろうか?
【これは神の裁きだ 己の罪を悔いよ】
一見、誰か特定の相手に対して発している意味深なメッセージのように思える。
だが――よくよく考えてみれば、これはおかしいのだ。
犯人は、死体と子供たちを海の上に隔離した。
場所によっては、この船が永遠に海の上を漂って見つからないこともあるだろう。
あるいは、見つかるまでにひどく時間がかかって、子供たちの皮膚が腐敗し、数字が視えなくなってしまうかもしれない。
そうなれば、折角用意したメッセージは消えてしまう。
つまり犯人は、誰かに読まれなくては意味がないメッセージを、いつ見つかるとも分からない大海原に放流したことになる。
これは完全に矛盾した行為だ。
要するに、この事件には文脈がない。
一貫性がなく、ただ字面が派手なだけで、中身が空っぽなのだ。
そのことに気付いた時、襟草はこの事件の目的に気付き、そして現状打破の解決策を思いついた。
こんなにも手の込んだ、それでいて中身のない、奇妙な事件、その真相。
それは――
犯人はこの事件で、世間を騒がせたかったのだ。
ここ数十年振り返っても見つからないような怪事件。
日本国内は動揺し、その混乱は世界に波及。
警察や探偵団が総動員され、犯人逮捕に尽力する。
その状態を作り出すことが、犯人の目的だったのだ。
ただそれだけのために、十人の無垢な命を犠牲にしようとしたのだ。
浅はかで、あさましくて、卑劣で、下賤で、どうしようもなく低俗な動機。
だが――だからこそ、付けいる隙がある。
「ぷはっ……」
波が幾度となく体を飲み込む。
船に備え付けられていたフロートを体に巻き付けていても、高波だけはどうしようもない。
口に入った海水を吐き出しながら、襟草は必死で手足を動かした。
少しでも前に進むために。
犯人の目的が世間を騒がせることだとすれば、あの船は見つからなければ意味がない。
そして同時に、その時子供たちは死んでいなくてはいけないのだ。
だとすれば。
この船は「放っておいても誰かに見つかる位置に浮かんでおり」かつ「それまでに子供たちは死ぬ」という計算になっているはずだ。
船の食料は三日分程度残っていた。
あれがなくなって、十歳未満の子供たちが餓死するのは――おそらく、今から七日後。
加えて、燃料が尽きていたにも拘わらず、あの船は少しずつ動いていた。
おそらく潮の流れが影響しているのだろう。
つまり、犯人の狙いから逆算すれば、あの船は「七日後にはどこかの陸地に到達する」場所に浮いていることになる。
ここまでくれば、後は簡単だ。
潮の流れを考えれば、日本近海でその条件に当てはまる場所は一つしかない。
日本海。
それもおそらく、北陸地方近辺だろう。
そして船の浮いている場所さえ分かれば、脱出は容易い。
船には携帯用コンパスが置いてあり、非常用のフロートも備え付けられていた。
なら後は――ひたすら南に向かって泳げばいいだけだ。
「がはっごほっ! げほっ! げほげほげほっ! おぇっ……」
海水が肺を満たし、呼吸が止まる。
肺は酸素を求めて収縮し、器官を通して生暖かくなった海水が逆流した。
生理的な反射で涙と粘液が顔中から飛び出して、視界を覆った。
襟草は強引に顔をふいて、コンパスを確認し、また泳ぐ。
普通の人間であれば、日本海のど真ん中から陸地を目指して泳ぎ切ることは不可能だ。
冷たい海水は容赦なく体を冷やし、叩きつける荒波は体力を根こそぎ奪っていく。
水分、栄養補給の観点から見ても、陸地にたどり着く可能性は極めて低い。
よしんば奇跡的にたどり着けたとしても、そのまま病院に運ばれて、意識不明のまましばらく目を覚ますことはないだろう。
けれど、襟草悟は普通ではない。
体温が低下しようが関係ない。体力がつきようが関係ない。
水分補給も、栄養摂取も必要ない。
死んだ後に、よみがえるのだから。
「……また死んでたか」
しばし飛んでいる記憶を確認し、襟草はまたコンパスを見ながら足を動かした。
あまり時間に猶予はない。手足は鉛のように重かったが、それでもかまわず動かし続けた。
脳裏によぎるのは、船に残してきた子供たちのことだ。
襟草は夜、子供たちが寝静まっている間に出発した。
襟草の所在を知っているのは、桜井音羽ただ一人だった。
「げほっ……いそが、ないと……」
襟草がすぐに行動を起こさなかったのは、ひとえに子供たちの存在があったからだった。
襟草の計算では、どれだけ早く泳いでも陸地に付くまでに丸三日はかかる。
ではその間、船に残された子供たちはどうなるだろうか?
最初のうちはいい。だが、しばらくすれば異変に気付く子も出てくるだろう。
代り映えのしない風景に、誰も来ない状況に、次第に不安が募るはずだ。
不安は閉鎖空間を次第に満たし、伝播して、子供たちは泣きわめくだろう。
外の世界を求めて、甲板に出る子がいないとも限らない。
例えば雨の日、荒波の日。
揺れる甲板に齢十にも満たない子供が一人、そこにいたとすれば――
襟草が陸にたどり着き、応援を呼ぶまでの間、子供たち十人全員が生き残っている保証がなかった。
だから襟草は踏み切れなかった。
自分以外の誰も、死なせるわけにはいかなかったから。
「げほっ! げほげほげほっ……!」
そんな絶望的な状況に光をくれたのが、桜井音羽の存在だ。
あの中では八歳と最年長で、少し大人びた女の子。
襟草は彼女に、ある使命を託した。
『これから三日間、子供たちのお世話をしていて欲しいんだ』
『お世話って……それだけでいいの?』
『たぶんね、とっても苦しい三日間になると思う』
襟草は音羽の目を見つめた。
『食料は日に日に減っていく。九人もの子供たちがぐずり始める。
その時、君には頼れる相手が一人もいない。
ただ、僕が陸地にたどり着くことを信じて、応援を呼んでくれていること信じて、ただひたすらに待つことしかできない』
音羽はきゅっと両手を握った。
両の瞳がゆらりと揺れる。だけど、襟草から視線をそらさなかった。
『僕は必ず帰って来る。君たちを誰一人欠けることなく救うために、必ず助けを呼んでくる。だから――』
『分かったわ』
音羽は言う。
『私は……あなたを信じるわ、襟草』
その言葉を口にすることが、どれだけ勇気のいることなのか。
襟草には想像すらつかなかった。
『……君は強いね』
『強くなんてない。本当は、とっても怖いもの』
だからね、と音羽は続ける。
『……ぎゅってして』
『うん』
襟草は音羽の華奢な背中にそっと手を回した。
とくとくと。小さな心臓が脈打っている。
『……ちゃんとあったかいのね』
『意外だった?』
『うん。もしかしたら、冷たいのかもと思った』
『ちょっとほっとした?』
『うん。ほっとした』
そして音羽は。
自分からそっと離れた。
『ねえ、襟草』
『なに?』
『一つ、約束してちょうだい』
『なんなりと』
『ちゃんと襟草が助けを呼んでくれて、私たちが助かって……それで、もう一度会えたその時には――』
音羽は笑った。
不安をかみ殺して、だけどそれを見せまいとするような、不器用な笑顔で。
『頑張ったねって、いっぱい褒めてね』
襟草は泳いだ。
何度も死んだ。
溺れて死んだ。
低体温症で死んだ。
肺に溜まった水をぬくために、ナイフで自分を刺して死んだ。
死んだ。
死んだ。
死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ。
体力は何度も限界を迎えた。
溺死を繰り返すことがこんなにも苦しいとは、想像だにしていなかった。
脳はやめろと警告し。
体は悲鳴を上げ続ける。
それでも。
それでも自分が今、泳ぐのを諦めたら。
あの子たちを救えないから。
今なお歯を食いしばり、必死で笑顔を張り付けて、不安と孤独と戦いながら、船上でただ一人戦い続けているあの子を助けることができないから。
あの子に、「頑張ったね」と声をかけてあげることができないから。
泳ぎ続けた。
やがて何度目になるか分からない死を乗り越えて、視界が渇いた海水でろくに機能しなくなり始めた頃。
「……っ」
足が、陸を捉えた。
「……はは」
それは実に、襟草が船を出てから二日後のことだった。
日夜を問わず泳ぎ続けた襟草は、驚異的な速さで陸地にたどり着いた。
「……はやく……行かなくちゃ」
一度死んで、体をリセットした方が効率はいい。
そう分かってはいても、気持ちが急いた。
今は、一分一秒が惜しかった。
一歩、また一歩と進むたびに、水位が下がっていく。
最初は肩、そして腰。
やがて、くるぶしだけが浸かる程度になって。
襟草はようやく、砂浜にたどり着いた。
倒れ込む様に砂地を這い、震える体を叱咤して、体を前へと押し進める。
ここはどこだ……警察の管轄は……。
いや、もうなりふり構っている暇はない。
あの人に連絡すれば、きっと――
「へえ」
頭上から、声がした。
それは、無機質な声だった。
なんの感情もこもっていなかった。
どんな情動も感じられなかった。
平坦で、機械的で。
中世的で、生ぬるくて、パサついていて、味わいがなくて。
真っ白で、真っ黒で、底の浅い、路傍にできた水たまりから這い出たような。
得体の知れない、声だった。
「ほんとにたどり着いたんだ」
シャカシャカと音がして、次いで仄かにミントの香りが漂った。
「ろくに見えてないだろうけど、一応自己紹介だけしとこうかな」
ソレは。
淡々と言葉を連ねた。
「はじめまして、襟草悟君。私が事件の犯人です」




