第6話 俺はここにいる
夜の9時。
お互いの家の方向が別々になる交差点。
「ここで大丈夫です」
凛がくるりとこちらを向く。
「今日1日、ありがとうございました。とってもとても、楽しかったです」
その言葉を裏付けるかのように、極上の笑顔が、街灯に照らされきらきらと輝く。
瞬間、俺の眉が僅かに中心に寄った。
水晶の如く透き通った瞳の奥に、プラスとは逆方向の感情が掠めた気がしたのだ。
幼馴染の俺でなければ見逃していたほどの変化。
「家まで送っていくよ」
気がつくと、提案していた。
凛は優しげに目を細めて、ゆっくりと首を振る。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。透君もお疲れでしょうし、早く帰って休んでください」
「お気遣いサンクス。でも大丈夫返し! もう夜も遅いし、送迎させてくれ」
「ですが……」
手を伸ばす。
繊細な指先と、自身の指先を絡ませる。
「さっきのは建前だ。凛と、もっと一緒にいたい。それが本音」
言うと、凛は目をビー玉みたいに丸くした。
かと思うと、ふっと口元を緩ませて、
「そう、ですか」
字面だけだと素っ気ないが、その声には弾みがあった。
自分よりも小さな手が、きゅっと握り返してくる。
「私も、同じ気持ちです」
それ以上の言葉は必要なかった。
4本の足が、凛の家の方向を目指す。
特に何を話すわけでもなく、ゆったりと、ふたりで歩く。
俺と凛の住むエリアは、駅から少し離れた住宅街ということもあって人通りは少ない。
加えて遅い時間という事もあり、すれ違う人影は皆無だった。
遠くから、電車の走行音。
近くから、時折走り去っていく車のブロロ音。
すぐそばからは、凛の息遣いと足音が聞こえてくる。
不意に、それらの音が一瞬にして消えてしまう。
隣から甘い香りがふわりと漂ってきて、脳をぴりりと痺れさせたのだ。
いかんいかんと、頭をぶんぶんと横に振る。
邪念を振り払う俺とは対照的に、凛は上機嫌に鼻歌を奏で始めた。
俺しか知らない演奏会。
また、神経にぴりっと電流が走った。
普段なら10分の距離を15分かけて、浅倉家の家までたどり着く。
「改めて、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。すっげー楽しかった」
「良いインスピレーションになりましたか?」
「そりゃもうバッチリ! 猫カフェ回だけで10万文字書けるね」
「もうそれは猫カフェを題材にした物語ですよ」
「それくらい、充実してたってことだよ」
「なによりです。それはさておき」
ぺこりと、凛が行儀よく頭を下げる。
「何から何までご馳走していただいて……本当にありがとうございました」
「いいって、気にしないで。いつものお礼の100分の1だと思ってくれればいい」
「では私からのお礼として、明日のお弁当、タケノコご飯にしますね」
「やべえ、今日のお礼が1万分の1になった」
「お礼のインフレ起こしすぎじゃないですかタケノコ」
その時、凛が纏う空気の微妙な変化を察知した。
先ほども感じ取った、違和感。
端正な面持ち生じた、雨雲のような薄暗がり。
「あのさ」
「はい」
「なんか、あった?」
「え?」
「いや、なんとなくだけど……元気なさげというか」
ストレートに言うと、凛は目をぱちくりさせた。
ぴきゅーんと、俺の頭上で豆電球が光る。
「わかった! 凛は俺と離れるのが寂しいんだな? そうかそうかなるほど!」
腕を組み、大袈裟に頷いてみる。
これはボケである、さあさあ鋭いツッコミをどうぞ!
というテンションのはずだったが、
「……本当に、なんでもお見通しですね」
しんみりと言われたもんだから、ナチュラルに面食らった。
どう言葉を繋げようかと考える間も無く、凛が口を開く。
「透君、マクサトで言いましたよね。もし、シロップちゃんがいなかったら私たち……出会ってなかったかもしれないって」
「あ、ああ……言ったな」
俺は今日、驚愕の事実を知った。
小学二年生の初夏、図書館での出逢い。
そのきっかけは、飼い猫のシロップだったのだ。
10年越しに耳にした邂逅の裏側。
俺の胸にもたらされた衝撃は計り知れない。
「想像したんです。もしあの時、透君と出会えなかったら、どうなっていたんだろうって」
星の見えない夜空を見上げて、凛が溢す。
「透君とお話したこと、美味しいものを食べたこと、お出かけしたこと……それらが全部無かったかもしれない。そう思うと」
──。
「寂しいなあって」
儚げに笑う凛の表情は、触れると夜闇に溶けて無くなってしまいそうだった。
想像する。
もし俺が、凛と出会ってなかったら。
凛と一緒にお話ししたこと、美味しいものを食べたこと、お出かけしたこと。
一読者として、俺の夢を応援してくれた日々。
笑顔で言ってくれた「面白かったです」
夢が叶ったその瞬間、一緒に流してくれた涙。
今となってはかけがえのない、それらすべての思い出が無かったかもしれない。
──ああ、うん、そうだな。
それはとても、寂しいな。
胸の太い血管が詰まるような痛み。
「と、透君?」
気がつくと、胸の中に凛がスッポリと収まっていた。
温かい。くらくらしそうなほど、良い匂いがする。
「大丈夫。俺はここにいる」
神様に誓うみたいに、告げる。
「これからも、ずっといるから」
それは、凛を安心させる言葉と同時に、俺自身の寂しさを紛らわせる言葉でもあった。
両腕に力を込める。
艶やかな長髪をゆっくりと撫でる。
凛の存在を確かめるかのように。
「私もです」
ぎゅっと、凛の方からも抱き締め返してくれた。
胸に芽生えた寂寥感を、逆に察知されたのかもしれない。
しばらく、ふたりで体温を共有していた。
やがて、お互いに屋外だということを思い出し、身体を離す。
「も、もうっ……いつの間に、そんな大胆になったんですか」
「い、意外と男らしいだろ?」
空元気を注入した胸を張る。
えんびつを突き立てたら破裂しそうだ。
「重々承知です。でも……」
ずいっと、凛が顔を近づけてきて言う。
「男らしいのは、私の前だけにしてくださいね?」
「それはもちろん。凛以外の前では美少女になるよ」
「今すぐトラックに突撃しましょう」
「それ暗に転生しろって言ってる?」
くすくすと、凛が口に手を当てて笑う。
明るい方向にしか広がっていない、純粋な笑顔で。
「それでは、また明日」
「ああ、また」
今度こそお別れである。
ばいばいと小さく手を振る凛に背を向けて、我が家の方向に足を向ける。
都心の空気は良くはないが、心持ちは非常に清々しいものだった。
凛と付き合って初めてのデート。
それは、後で思い返しても最高だったと言わざるを得ない1日であった。




