第5話 なんとなく
「シロップに傘をあげたの、もしかして凛?」
透くんの質問は、マクサトの喧騒の中でもはっきり聴き取ることができました。
できましたが、肝心な問いの意図がわからず、私は目を瞬かせます。
「あ、いや、えっと……」
後ろ手に頭を掻き目を泳がせる透くん。
なんでこんな質問をしたのかわからない、という顔でした。
「ちょっと待って。今、いろいろ纏めてる」
額に手を当てて、「あー、えー」と唸り始める透くん。
私はなにを思ったのか、透くんの手首に手を添えて提案しました。
「とりあえず、一緒にドリンク買いに行きませんか?」
「へ」
「途中で喉が乾くと思うので」
「ああ、なるほど?」
透くんと席を立って、注文口へ。
夕食のコアタイムに差し掛かったのか、注文口はそれなりの人混みでした。
最後尾に二人分の影を滑り込ませてから、尋ねます。
「どうして、わかったんですか?」
ぎょっと、透くんが私のほうを見てきます。
「え!? てことはあの傘、やっぱり凛のだったの?」
「質問した側がびっくりしてどうするんですか」
びっくりしたのは、私の方です。
何がどうなってさっきの問いにたどり着いたのか。
じっと、透くんの答えを待ちます。
「ポーチと、財布」
「え?」
「傘と、同じ色だったから」
頭の中が、ぴかっと光りました。
あの日さしていた傘の色。
今日持って来たポーチと財布の色。
どちらも、パステルピンク。
「たった、それだけで?」
「馬鹿げてるよな」
肩を竦める透くん。
「あと、なんだろうな。上手く言語化はできないけど……さっき猫カフェで凛と話していた時、降ってきたんだ」
私の目を見て、透くんは言い置きます。
「なんとなく、そんな気がしたんだ」
──ああ、なるほど。
不思議と、腑に落ちました。
“なんとなく”
それは、特に考えのない思いつきのようで、実は思考の奥深く、潜在意識下で理屈が働いた結果でもあります。
私にだって、あります。
言葉が無くても、透くんは今こんな気持ちなんだろうとか、こんなことを思っているのだろうとか。
なんとなく、わかることがあるのです。
きっとそれは、心の深い部分で繋がっているからこそ出来る意思疎通。
長い付き合いを経た透くんだからこその空気感。
そう思うと、胸の底に温かいものがじんわり染み込んでいきました。
それをもっと深いところに押し込むように息を吸い込みます。
「お父さん、猫アレルギーだったんです」
今でも、昨日の出来事のように思い出します。
「あの時の私は、シロップちゃんに傘をあげることしかできませんでした」
幼心ながら感じた無力感、悲壮感を。
「でも、家に帰ったあと、放って置けなくなって……シロップちゃんのところに戻りました」
ただひとつの小さな命を助けたいという、純粋な思いを。
「そしたら、透くんがいたんです」
雨が急に晴れたかのような、希望を。
私は、今でも思い出せます。
「……見られてたのか」
ぽりぽりと頭を掻く透くんに、私は心の底から笑顔を描いて頷きました。
「はい」
この事を明かすのは、初めてです。
特に隠す必要もなかったのですが、なんというのでしょう。
あの時の思い出は。私だけの秘密にしたかったと言いますか。
理屈では言い表せない理由で、心の宝物箱の中にそっと仕舞い込んでいました。
その宝物の手がかりを、透くんが見つけてくれた。
胸のあたりがぽかぽかして仕方がありませんでした。
「なに飲みたい?」
「えっ」
気がつくと、前の列がはけて注文が私たちの番になっていました。
「えっと、ウーロン、茶?」
「おっけ」
「あ、私出します」
「いいよ」
「いえ、ここは」
「いいから」
ここは譲らない、という強い意志。
私の手の甲に、透くんの掌が添えられます。
「10年越しのお礼をさせてくれ」
お礼、とは。
尋ねる前に、透くんは店員さんと注文のやりとりを始めてしまいました。
「……ありがとう、ございます」
「おう」
席に戻ってから、ストローに口をつけます。
妙にそわそわした心持ちでした。
「今でも、覚えてることがあるんだ」
前触れなく、透くんが口を開きます。
「あの日……初めて抱いたシロップはずぶ濡れで、めちゃくちゃ冷たかった」
冗談抜きで、このくらい。
そう言って、透くんはカップの氷をじゃらじゃらと揺らします。
「動物病院で言われたよ。あともう少し助けるのが遅かったら、死んでたかもしれないって」
「そう、だったんですか」
私の知らない、事実。
もう10年の前のことなのに、胸の表面がひやりと震えます。
「じゃあ文字通り、透くんは命の恩人ですね」
「いや、恩人は凛の方だよ」
「え?」
意図を汲み取りきれず、視界をぱちぱちと瞬かせます。
「もし凛があの時、シロップに傘をあげてなかったら……多分、遅かったと思う」
真っ直ぐな瞳で、透くんは、
「ありがとう」
ただただ純粋な感謝の言葉を、私に贈りました。
「10年越しのお礼って、そういうことですか」
「安すぎるけどな」
一瞬の苦笑いの後。
透くんが、じっと私の目を見て言います。
「だからこれからも、たくさんお礼をさせてくれ」
“これからも一緒にいような”
透君の言葉には、そんなコンテクストが含まれているように聴こえました。
なんとなく、ですけど。
その証明をするかのように。
私の手の甲にそっと、透君の温度が重なります。
「その不意打ちは、ずるいです」
「悪い、つい」
「もう」
自由なもう片方で紙コップに手を伸ばします。
指先から伝わってくる烏龍茶の温度は、先ほどよりも冷たく感じました。
「でも、よくよく考えると奇蹟みたいな縁だな」
「というと?」
「ほら、もしもの話だけど、シロップがいなかったら俺たち……出会ってなかったかもしれないじゃん?」
何気なさげに放たれたその一言は、私の胸に大きな衝撃をもたらしました。
想像します。
もしあの日、シロップちゃんがいなかったら。
透くんと出会うことも、付き合うことも、こうしてマクサトで一緒にハンバーガーを食べることも、無かった。
そう思うと……胸の奥に凍えるような風が吹き抜けました。
なんでしょう、これ……すごく……切ない。
「凛?」
「んぇっ」
「どうした、ぼーっとして」
「あっ、いえ……なんでもありません」
誤魔化すように、ストローに口をつけます。
乾いた喉を烏龍茶で潤すと、大きめのパジャマに袖を通した時のような余裕が生まれました。
でも、胸の奥ではまだ、風が吹いていました。
あの日の雨よりも、カップの氷よりも冷たい風が、ぴゅうぴゅうと。




