第3話 透くんは恩人ですから
ひとまず、店内を一周した。
視界に猫が入るたびに立ち止まって、戯れて、スマホでパシャパシャした。
都内でも有数の規模を誇る猫カフェということでそれなりの時間を要したが、間延び感も感じないくらい楽しく、充実したひとときであった。
存分にもふもふパワーをチャージし、4人がけのソファに肩を触れ合わせて座ってから、俺は口を開く。
「飲み物、取ってくるよ」
「あ、私も行きます」
「いいよ、その子の相手してあげてて」
凛のそばで、白い毛並みの猫が行儀よくおすわりしている。
繊細な指先で顎先をくすぐられ、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
「どいたま。なにがいい?」
「アイスココアがいいです」
「おけい」
大役を仰せつかった俺は、フリースペースを出て自動販売機コーナーへ。
本店はドリンクバー形式を取っているため、お金を入れずとも商品ボタンが反応するという素敵なプチ富豪体験を提供してくれた。
氷とココアが紙コップに注がれる様子をうっとりと眺めてから、世界で数人しかレシピを知らない魔法の炭酸飲料をプッシュ。
化学調味料たっぷりの真っ黒な液体を紙コップに注いだ後、フリースペースに戻る。
「おお」
思わず、足を止めた。
凛の太ももに、白猫がぐでーんと身を預けてすやすやと眠っていたから。
優しい手つきで、白猫を撫でている凛。
その目は、我が子に向けるような愛おしそうなもの。
神聖な粒子でも漂っていそうなその光景は、絵にして飾りたくなるような神秘性を秘めていた。
紙コップを手荷物台に置いてから、スマホを取り出してパシャり。
「一枚一億円です」
「絵画かよ」
「今なら十億円にまけてあげますよ?」
「まけてないね。豪邸買えるね」
凛の隣に腰を下ろす。
「ほい」
「ありがとうございます」
ココアを手渡してから、自分のコップに口をつける。
しゅわしゅわと弾ける暴力的な刺激と、カラメル感の強い甘味。
脳が弾けて背徳感が全身に染み渡り、自然とピザが欲しくなった。
胃ではなく血液が喜ぶ飲み物とは、まさにこのことだろう。
ちらりと横に視線を流す。
凛は両手で紙コップを持ち、ココアをちびちびやっていた。
その様子はまるで、ビスケットを大事に抱えたハムスターのよう。
可愛い。
また、スマホに手が伸びる。
「どうせなら、もっと良い角度で撮ってください」
「意外とノリノリな件」
「心のシャッターは、そろそろ容量不足でしょう」
「それ間接的に俺の脳みそ小さいって言ってる?」
苦笑を浮かべつつ、空になった二人分の紙コップを捨ててから、凛の前に立つ。
「可愛く撮ってくださいね?」
「どう撮っても可愛くなるから心配するな」
「それは……」
ぽつりと、前置詞を置いたあと、凛は白猫を見下ろし俺の方を向いた。
「どっちのことを、言ってますか?」
──そんなの、決まってるじゃないか。
「と、撮るなら早く撮ってくださいっ……」
上擦った声。白き頬が、ぽっと朱に染まる。
きっと、自分で言っておいて恥ずかしくなったのだろう。
「お、おおっ」
俺も脈が速くなったのを感じながら、おぼつかない手つきでスマホを構える。
未だドギマギしている俺とは対照的に、凛は肺にすうっと空気を入れて、柔らかく微笑んだ。
……ほら、やっぱり。
電子のシャッターを刻む。
心のシャッターも忘れない。
液晶画面に映し出された画像は、なんというか、うん。
「これはプライスレスだ」
絵画よりも豪邸よりも価値のある一枚だと、確信する。
「写真一枚で大げさな」
「何百枚撮ったって同じだよ」
「……そうですか」
再び頬を赤くし、もじもじと太ももを擦り合わせる凛。
その動きに合わせて、白猫も身体をくねらせた。
その隣に、腰を下ろす。
しばらく何を言うわけでもなく肩を並べていると、不意に手の甲を温かい感触が覆った。
凛が、包み込むように手を重ねてきたのだ。
横を見ると、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべる凛。
妙な欲求が湧き出た俺は、下を向いていた手のひらを上に向け、凛の指先に自分のそれを絡ませた。
見開かれた瞳がこちらに向けられる。
得意げに笑ってみせると、凛は一瞬、んもーっと頬を膨らませてから、ふっと口元を緩ませた。
甘くて柔らかい、シフォンケーキのような笑顔と共に、凛の手からぎゅっと圧力が伝わってくる。
平和だ。
本当に平和で、ずっと続いて欲しいと心の底から願うほど、穏やかな時間だった。
「この子、シロップちゃんに似てますね」
まったりしていると、凛が思い出したように口を開いた。
「言われてみると、確かに」
白くてもふもふで、我こそ世の支配者なりと言わんばかりの不遜顔。
見れば見るほどシロップだ。
だが、決定的な違いがある。
「シロップも、このくらいデレデレだったらいいのに」
うりうりと顎に人差し指を滑らせると、白猫は目を細め気持ちよさそうにする。
シロップにこんなことをしようものなら、人差し指をちらつかせた途端にぷいされるに違いない。
「あんまり匂いをつけすぎると、シロップちゃん、嫉妬しちゃいますよ」
「まさか。シロップ、俺に対する興味なんざ1ミクロンもないだろうから、いつものように餌を要求してくるに違いない」
「猫ちゃんの興味無いは、愛情の裏返しですよ」
「どうだか」
「だって」
振り向く。
「シロップちゃんにとって、透くんは恩人ですから」
大事な宝物を撫でるように紡がれたその言葉には、不思議な重みがあった。
ゆっくりと持ち上がる口角。
懐かしげに細められる大きな瞳。
穏やかな微笑みを視界に収めた途端、脳裏に一筋の電光が走った。
源泉のように湧き出る、断片的な記憶。
肩口を濡らす雨。
ぐしょ濡れた段ボール。
スマホサイズの身体を震わせながら、懸命に鳴き声を上げる子猫。
脳裏にそれらの映像が浮かんだ途端、潜在意識下で小さな稲妻が走った。
複雑な数学問題に挑んでいる最中、解法の糸口が不意に浮かんだ時のような感覚。
傾げた頭にゆっくりと手を当てる。
思考を深めようとしたその時、バリバリッと枯れ枝を裂くような音が耳朶を打った。
「あっ」
思考が現実に引き戻される。
いつの間にか身体を起こした白猫が、凛のスカートに爪を立て始めたのだ。
「それはあかんやつ!」
慌てて引き剥がそうとする。
すると、俺の手から逃れようと白猫が身をよじった結果、爪が繊維に深く食い込んだ。
「うおっ……!?」
「ひゃっ……」
落ち着いて対処すれば良かったものを。
早く引き離さねばという焦りと予想外の動きを取られ驚きが合わさった結果、ものの見事にバランスを崩してしまう。
気がつくと、凛の両脇に手をつき覆い被さるように見つめ合っていた。
視線が交差すること数秒。
目と鼻の先に、彫刻細工かと見紛うほど整った顔立ち。
驚きに見開かれた大きな瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
状況把握に理解が追いついた脳が、急速にヒートアップした。
「わ、悪い」
身体を離そうと腕に力を入れる。
しかしその動作は自分以外の意思によって中断させられた。
わかりやすく言うと、凛が俺の背中に腕を回して引き寄せてきたのだ。
穏やかで甘い匂いが鼻腔を突き、脳天がびりびりと痺れる。
身体の前面部にじんわりと伝播する、凛の体温。
鼓膜をどくんどくんと震わせるやけに早い鼓動は、一体誰のものだろう。
「人の目、ないところオンリーじゃ?」
尋ねると、
「……これは事故ですから、仕方がありません」
凛は恥ずかしそうに、でも、嬉しそうに言った。
胸の芯を射抜かれた俺が、自分から凛を抱き締め返した事は言うまでもない。
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