第1話 世界一可愛い俺の恋人について
あれは確か、10年前の梅雨時。
その日も、セメント色の雲が地上をせっせと濡らしていた。
俺は一人傘をさし、とことこと学校から帰る途中だった。
みゃーと、物寂しい鳴き声が聞こえて振り向く。
「ねこ……」
無造作に放置されたダンボール。
その中に、小さくて白い猫が一匹。
捨て猫、という単語が脳裏をよぎった途端、俺の足はダンボールに吸い寄せられていた。
箱はぐっしょりと濡れいて、下には申し訳程度にタオルが敷かれている。
最後の慈悲なのか、小猫の頭上はパステルピンクの傘に覆われていた。
胸に浮かぶのは子猫に対する同情と、なんとかしてあげたいという正義感。
あと、仮にこの子を連れて帰ったとして、母さんはなんと言うだろうという、不安。
『困っている人がいたら、助けてあげなさい』
母さんが、俺に常々口する言葉が頭を過ぎった。
この子猫は、困っている。
困ってるから、助けなきゃ。
人じゃないけど、大丈夫だよね。
という、キッズ特有の短絡的かつ都合の良い変換機能がかしゃかしゃ動いて、手を伸ばした。
「……あれっ」
両掌が子猫に触れた途端、思わず首を傾げる。
傘に覆われていたにしては、随分とずぶ濡れで、ひんやりしていて。
まるで、さっきまで雨に打たれていたような……。
みゃーと、子猫が声を上げて思考が中断する。
不安げな瞳を向けてくる子猫を安心させようと、ぎこちなく笑ってみせた。
「もう大丈夫」
傘の持ち手を肩と首で挟んでから、子猫を抱き抱える。
自分よりも幼くて、小さな命。
それは軽くて冷たくて、このまま消えて無くなってしまうんじゃないかという、怖さがあった。
早く温めてあげないと。
子猫を胸に抱き抱え、俺は小走りに家へと急いだ。
後日、俺はとある少女と出会い、唯一の友達になった。
それからまた少し経って、少女と肩を並べて帰ることになった雨の日。
彼女が手に持つパステルピンクの傘に妙な感覚を抱いたけど、その正体はわからなかった。
◇◇◇
高校三年生の俺、米倉透には同い年の幼馴染がいる。
浅倉凛は成績優秀スポーツ万能、優等生という単語がそのまま擬人化したよう美少女で──。
「なにじろじろ見てるんですか気持ち悪い」
四月、第三週目の土曜日。
凛と手を繋いで街を歩いていると、隣から手厳しい言葉が飛んできて肩がビクッと跳ねた。
「じ、じろじろは見てない!」
「ちらちらは見てましたよね?」
「……」
「沈黙の肯定、ですか?」
「歴史モノにありそうなタイトルだね、沈黙の皇帝」
「話逸らさないでください」
「はいすみません、ちらちら見てました」
ぐりぐりと、凛の手から圧力が伝わってきたので謝罪の意を表明する。
でも許してほしい。
だって凛は俺の主観関係なく、とんでもない美少女なのだから。
森奥の湖水のように透き通った肌、輪郭の整った顔立ち。
切れ長の瞳は小ぶりのナイフのような鋭さを持ちつつも、見る者を吸い込んで離さない不思議な引力に満ちている。
身体のラインは細いが胸部はしっかりと膨らみを主張していて、長くて艶のある黒髪は暖かな四月の風に弄ばれ揺らめいていた。
そんな、清楚さと凛々しさを兼ね備えた大和撫子もかくやといった美少女、それが凛である。
故に、俺の視線が凛に吸い寄せられてしまうのは、砂糖に集まる蟻と同じで仕方がないことなのだ。
仕方がないことなのだ。(強調)
「別に、見たければ堂々と見ればいいですのに」
「え?」
凛が、ぷいっと顔を背けて言う。
耳がわずかに赤らんでいるのは恐らく、春の日差しによるものではない。
「だって私たち」
きゅっと、俺の手に控えめな力が篭る。
「恋人、なんですから」
りん、と安らぎを与えるような響きに、胸の奥でじん、と熱が灯った。
そう。
凛は成績優秀スポーツ万能、優等生という単語がそのまま擬人化したよう美少女で──俺の恋人だ。
小学生の頃に想いを灯してはや10年。
ほんの二週間前に、俺と凛の気持ちはひとつになった。
ぶっちゃけ、未だに実感がない。
ずっと長い間、想いを焦がしに焦がしていた分、いざ成就したはいいものの感覚が追いついていない。
そもそも凛とは小学生の頃から一緒にいたのもあって、恋人同士になったところで劇的になにかが変わったわけでないのだ。
とはいえ、今こうしてふたりでデートをしていることや、指と指を自然に絡ませてお互いのぬくもりを共有していることは、俺と凛との『確かな関係』の証で。
それらを五感に刻むたびに、凛に対する愛おしさとか、その気持ちを率直に伝えていいんだという喜びとか、なんだろう、うまく言葉にはできないけれど。
兎にも角にも、凛と付き合えてよかったとしみじみ思うのだ。
とか考えてたら、凛を今すぐ抱き締めたい衝動が湧き出てきた。
「む、なにやら性犯罪者の気配を感じます」
「誰だそいつは。今すぐとっちめてやる」
俺たちのデートを邪魔するものは許さん。
「今この瞬間、私と手を繋いでる人ですね」
「いかがわしいことは考えてないよ!?」
「いかがわしいことは、ですか」
「……抱き締めたいなーとか、思っていました、はい」
以前であれば、ここで凛は深々と溜息をつき、侮蔑を含んだ瞳とともにありったけの貶し言葉を俺に進呈していたことだろう。
でも今は、違う。
「……人の目が、ない場所でしたら」
ぽつりと言って、端正な面持ちを「照」一色に染め上げる凛。
付き合う前には聞けなかった言葉、見られなかった反応に、俺は自身の顔に温度が集中したことを悟った。
「ちょ、そこで黙らないでください恥ずかしいじゃないですかっ」
「お、おおっ、悪い」
ほんのりと荒い凛の声で、感傷に浸っていた意識が舞い戻ってくる。
ばくばくとうるさい心臓を宥めてから、口を開く。
「すまんすまん、幸福の泉で極楽し過ぎた」
「そうですか。私と付き合えて、一緒にデートできるのがそんなにも嬉しいのですね」
「恥ずかしい! せっかくオブラートに包んだのに!」
「私に恥ずかしい思いをさせるからです」
くすりと、凛が悪戯っぽく笑って言う。
「罰として、今日一日、私と一緒に楽しんでくださいね」
至近距離で描かれた愛おしい笑顔に、言葉を失いかける。
なんとか思考を戻してから、俺は本日のデートに対する意気込みを言葉にした。
「もちろん。全身全霊で償わせてくれ」
「ふふ、よろしい」
今日は、凛と付き合って初めてのデート。
きっと、楽しい一日になるに違いない。




