忌み地に聖母のキャンドルを。
亮太に惚れたのが先だったのか──私にはもう、思い出せない。
有給を使って仕事納めを早めた私は、スーツケースを引いて、かつて薔薇のアーチがあった家の前に立っている。
はじめてここに来てからもう十五年が過ぎた。
セーラー服を着ていたあのころと違って、今の私の髪の毛はもう長くって、びゅうびゅう吹きつけてくる冷たい風で目の前がまだらに見えなくなった。
いや、私が見ていたものも、そうだったのかもしれない。ところどころしか見えない、あるいは、見たいものしか見えない、そういう記憶が蘇る。
その人は、光に包まれた聖母のように見えた。
キッチンの後ろ側、すこし高いところに細長い窓がある。そこから差し込む西日が、亮太の母のふっくらした輪郭を切り取るみたいに輝かせていた。
「あ、ええと……」
近くに来たあたしに気づいた彼女は、すこし困ったようにほほ笑んだ。先ほど降りてきた2階の亮太の部屋からは、いくつもの笑い声が響いてくる。終業式のあと、同級生数人で、高校近くの亮太の家に集まってゲームをしていた。
「あの……相原です」
「そう、そうだわ。珠々ちゃん。ゆっくりしていってね」
彼女は目がなくなりそうなくらいにっこりとほほ笑むと、手元に視線を戻した。餅のような手で銀の取っ手をにぎり、もう片方の手で割り箸をそっと動かしている。ステンレス製のボウルをかき混ぜているのだ。中には白くてつやつやした塊がいくつも入っていた。ところどころ、紐のようなものが見える。
そしてその下には、ふつふつと煮立つ鍋。
「クリスマスに使うキャンドルをつくってるの。安~いろうそくを溶かしてね。よかったらやってみる?」
「……いいんですか」
本当はもう帰るつもりで降りてきた。けれども好奇心が勝った。
「いいよぉ」
彼女は間延びした声でおっとりと言う。そういう話し方をする大人は周りにはいなくって、あたしは思わず、ぱちぱちと瞬いた。
なんだか時間の流れが違うような。
「あ、ちょっと待って。せっかくなら……」
そういうと彼女は、リビングの戸棚をごそごそと探り、使い古されたクレヨンの箱を持ってきた。
「これを削って入れるとね、色が変わるの。珠々ちゃん、何色が好き?」
考えたことが、なかった。答えあぐねていると、彼女はいつまでもゆっくり待ってくれていた。
気がつくと、銀のボウルの中身は、とろりとした水飴のような液体に変わっていた。たくさんあったろうそくの欠片たちはもう見当たらない。
あたしは焦って辺りを見回して、そういえば、庭先の鉢に、赤い花ばかりが植わっていたことを思い出して「赤です」と答えた。
「……じゃあ、これ」
彼女はあたしにチビのクレヨンと、なぜかパンの袋についているアレを手渡して、火の勢いをゆるめた。湯煎していた熱湯の表面が、すこしずつ凪いでゆく。
「こうやってねえ、削るの。割り箸だとかなり力がいるんだけどねえ、この留め具だとちょっとだけやりやすいんだよ」
ほとんど音なく、クレヨンの表面が削れてゆく。赤い雪が澄んだ泉に降ってるみたいだ。でも、少しずつ"ろうそく水”の色が変わる。クレヨンの赤がぼんやりと滲んで、色を広げていく。
「あとはこれを取りのぞいて……」
亮太の母は、割り箸で中に浮かんだ赤い糸を「ろうそくについてた紐も使うの」と言いながら掴んだ。
「珠々ちゃん、この中にろうそく入れてもらえる?」
「ハイ……」
あたしがステンレスボウルをそっと持ち上げると、彼女はクッキングペーパーでそっと底から垂れる水滴を拭いた。甘い匂いがした。硝子の中に透き通った赤色がとろりと蜜みたいに落ちてゆく。
彼女は割り箸に先ほど取り出した糸を挟むと、赤い蜜の中央にそうっと浮かべた。あたしは彼女のつむじの周りに、白いろうそくみたいにきらめく髪の毛のいくすじかをぼんやりと見ていた。
「グラスのね、底に着くくらいの長さにするのがこつなの」
それから彼女は、口もとにしぃーっと人差し指を当てると、あたしにダイニングにつくようにうながした。
「これはね、私のおやつ。みんなの分はないから秘密ね」
彼女は、名前のわからない焼き菓子を出してくれた。プリンみたいな形をしているのだけれど、しましま模様のでこぼこがついている。
「紅茶はだいじょうぶ?」
飲んだことがなかったけれど、うなずいた。
彼女はにっこり笑って、窓のほうを向いた。湯気がもくもくと上がっている。そのまあるい後ろ姿を見ていたら、なんだか泣きそうになって、あたしは視線を彷徨わせた。
リビングにはあたしの背よりも大きなツリーがあって、その足元にはプレゼントのような箱がたくさん置かれている。家の中にはいくつもの写真立てがあって。清潔なだけじゃない温かさを覚えた。
そうして他愛のない話をした。亮太が子どものころのこと、今の学校のこと……。答えに窮しても彼女は急かすことなく、ただにこにこして待っていた。ぱっちりした二重の目は亮太とそっくりだけど、精悍な印象の彼とはちがい、甘くて幼気な顔立ち。
やがて互いの顔がぼやけて見えるくらい薄暗くなったとき、彼女は立ち上がって大きな掃き出し窓のほうへ向かった。
「雪、降らないかしら」
この街では、ほとんど降らない。
「ホワイトクリスマスには奇跡が起きるっていうでしょ? 私は北国の出身なの。でもこの街に嫁いできたら雪が降らなくて。クリスマスに降ってくれたら、奇跡が何倍にもなりそうな気がしない?」
亮太の母はころころと笑って言った。
まっ白なエプロンが薄暗い部屋のなかでコントラストを放っていた。眩しい。ぴっしりと糊のきいた清潔なもの。うちには決してないもの。この家は、クリスマスツリーみたいだと思った。
きらきらしたもので飾りつけられた、美しい場所。しばらく空を眺めていたけれど、彼女はやがてカーテンを閉めはじめた。
ぱっと居間の電気がついた。
帰らなければならないことを思い出す。
彼女に告げると「ちょっと待ってね」と硝子の中から出来上がった赤いろうそくをそうっと取り出して、包装紙で包んで持たせてくれた。それから亮太を呼びに行く。
亮太の家を出ると、冷たい風が頬を刺した。
あたしは赤いチェックのマフラーをぐるぐる巻きにして、顔をなるべく覆うようにした。
「珠々ってたくましいよねえ」
白いダッフルコートを着て、ベージュのマフラーを上品に巻いた美穂が大袈裟な顔をして言う。その言葉に、クラスの男子連中もうなずく。セーラー服のすきまからだけじゃなく、布越しにも冷たい風がわかる。
「じゃあまた」
あたしはみんなと反対方向に歩き出した。ほんとうは一緒の電車に乗らなければいけない。でも、なんだか、惨めで。
亮太の家は閑静な住宅街にあり、暗い中で見るとどこもおんなじに見えて、あたしはすっかり迷ってしまった。方向すらわからない。どうしよう。スーパーに寄らないといけないのに。母さんが帰ってくる前に。
途方に暮れたころに電話が鳴った。
『珠々ちゃんさあ、今、どこ? 迷ってない?』
亮太だった。
「……っ、わ、わかんない。迷った」
動かないように言われて、目印になるものを伝えると、亮太が息を切らしてやってきた。
女子にしてはかなり背の高いあたしよりも、亮太は目線が高い。夏までは坊主頭だったけれど、部活を引退してからはなんだか違う人みたいに見える。
駅前で亮太と別れて、電車に乗った。
夕方のやや混み合った車内でぼんやりと外を眺めているうちに、扉が閉まり、ゆっくりと動き出した。すぐ目の前の踏切で、こちらに向かって手を振っている人がいることに気がつく。
亮太だ。
子どもみたいに、無邪気に手を振るあの人を見て、あたしは振り返せなかった。驚きすぎて。いるなんて思わなかった。
始発駅だから、発車までかなり時間があったのに。それなのに見送ってくれたなんて。車窓の向こうに亮太の姿が吹き飛ばされたあともばくばくする胸の鼓動は止まらなかった。
終点に着いた。
市街地から離れた山あいの無人駅で降り立つ。ぽつりぽつりと電車は空いてゆき、この駅で降りる人はもうずいぶんと少なかった。
家とは反対側に歩く。買い出しをしなければいけない。
バイトがないときは夕飯づくりがあたしの役目だ。今日はたまたま休み。友だちと遊んだなんて初めてに近かった。都合があわなくって断りつづけていたら、いつの間にか誘われなくなっていて。3年で同じクラスになった亮太だけが、懲りずに声をかけてくれていた。
煌々と明るいスーパーを出る。両手がずっしりと思い。右肩には通学鞄代わりのエナメルバッグもかかっていて、あたしは体が斜めになりながら家までの道のりを歩いた。
足を動かすたびに、ビニール袋が膝に当たって、シャカシャカとん、と規則的な音を立てる。少しずつ暗さにも慣れてきて、吐く息が白いことに気がついた。
目の前の空も、ただまっ暗なだけだと思っていたのに、グレーに透ける雲が、亀の甲羅みたいな配列で並んでいる。そのあわいに星々が落ちている。すぐ横のため池の、水辺と草地と地面と。
それぞれのコントラストも見えるようになってきた。近くの荒れ地で、こんな時間に野焼きをしているのに気がついた。限りなく黒に近い煙が空へ昇っている。
亮太の家を出たときはあんなにも寒々しかったのに、長いこと歩いた今は、マフラーを剥ぎ取りたいくらいに暑い。冷えてゆくこころとは違って。
山のなかにある古いアパートは、不便なので当然ほとんどだれも住んでいない。灯りがともっていることに気がついて焦る。なるべく急ぐ。無意味だとわかっているのに。扉を開けたら雑誌が飛んできて、ビニール袋を持つ手をかすった。鋭い痛みに顔がゆがむ。
「どこほっつき歩いてたんだよお前はァ」
明るい茶色の髪をチリチリにカールした母は、赤い口紅を塗りながら鏡越しに言った。あたしはすぐにビニール袋の中からハムと葱を取り出す。かがんだときに気づいた。野焼きの、残り香。
自分でざくざく切っている短い髪の毛にも執拗に絡みついて、煙ったい。
炒飯をつくってゆく。母は終始不機嫌だった。ため息をついたり、舌打ちをしたり、「あーもう」と独りごちながら髪の毛をぼさぼさにしたりしていた。じゃあじゃあと鳴る鍋の中のおいしい音は、不協和音にかき消されていった。
こんな街、──出てゆきたい。
そう思っても、背ばかり伸びてもあたしは法律上は子どもで、どうすればいいのかなんてわからなかった。
『珠々ちゃん、24日空いてる?』
亮太からメールが届いたのは、母が仕事に出たあとだった。
着信音が鳴った瞬間、すっかり冷めていた筈の炒飯が、ふとおいしく感じられた。
『またみんなで、うちでゲームやろうってさ』
ただの水道水を飲んだだけだったのに、ぽっと口の中が甘くなる。亮太の母がこっそり分けてくれたお菓子の味がよみがえる。あんなの、食べたことがない。
それだけじゃなかった。今日のあたしは、変だ。踏切の前で見送ってくれた亮太のことを思い出したら。なんだかふわふわした気持ちになる。
亮太の家はカントリー調の大きな戸建てだった。 みんなで家に着いたとき、ちょうど彼の父親が玄関から出てきたのだけれど、メルヘンな雰囲気の家から、眼光の鋭い、大柄で熊のような男性が出てきたものだから、すごくギャップがあったものだ。
周りにも、同じような家々が、それぞれの個性を主張するようなデザインで、けれども行儀よく整然と並んでいる。
玄関をくぐる前に、アーチ型のなにかがあって、そこには枯れ草がていねいにくくりつけられていた。亮太の母に聞いたのだけれど、あそこには五月になると満開の薔薇が咲くのだという。
あたしは亮太の母からもらった赤いろうそくを取り出して、母の店のマッチをそっと擦った。
しゅわっ。火がついた。
赤と青がせめぎ合うように揺れる。マッチの帽子みたいな部分はすぐに黒焦げになった。
そうっとキャンドルに火をともす。ゆらゆら。揺れる炎がいつの間にか滲んでいる。なんだろう。甘い、甘ったるいくらいの香りが部屋のなかを充たしてゆく。そうして野焼きの煤けたにおいを上書きするみたいに。熱いものがぼたぼたと落ちてくる。
あたしは想像した。薔薇のアーチをくぐって、「ただいま」と家に入る自分を。
「……イタいだろ」
ばたばたと手を動かして、火も夢も消し去った。
『ちょっと話があるんだけど』
美穂からメールが届いたのは深夜だった。
明日はバイトがあると言うと、そのあとに駅前でいいからさと言われる。不機嫌そうな、眉根を寄せた姿が想像できた。
始発の電車は2時間に1本しかない。いつも通り、バイトがはじまる1時間も前に駅に着いてしまった。図書館へゆく。べつに本が好きなわけじゃない。暖かくて静かだから。
家のそばには図書館なんてないから、こんなに快適でお金がかからない場所があるなんて、高校生になるまで知らなかった。
ふと思い立ってお菓子の本を手にとってみる。
亮太の母が食べさせてくれたあの菓子。しましま模様に凸凹のある、プリンみたいな形をしたあれは、カヌレというらしい。小麦粉、牛乳、卵に砂糖……。もしかしてあたしにもつくれるだろうかなんて思ったけれど、無塩バターなんて高級品を買ったら母になんて言われるかわからない。
諦めて自習スペースで勉強をした。
「珠々ちゃん?」
空耳、……かと思った。顔を上げると、すこし離れたところに亮太が立っていた。
「わあー、偶然!」
亮太はぱたぱたと駆け寄ってきて、図書館の人に叱られた。「すみません」と礼儀正しく謝る。
「部活、まだ行ってるの?」
ジャージ姿の彼に尋ねる。
「ん。後輩に呼んでもらってさ。ずっと勉強ばっかりだとしんどいから、ありがたいよ」
亮太は目の前に座ってにこにこしながら言うと、バッグの中から問題集を取り出して、静かに勉強をはじめた。目を伏せると、まつ毛が長いことに気がつく。この時間が終わるのが勿体なかった。
亮太はランチに誘ってくれたけれど、バイトの時間が迫っているとうそをついた。駅に向かう彼と、ビルの入口で別れるまでの、ごくごく短い時間がとても愛おしかった。ひらひらと手を振って亮太が帰ってゆく。あたしはその様子をずっと見ていた。彼は何度も振り返ると、子どもみたいに手を振った。
彼の姿が見えなくなったあと、あたしは裏の小さな公園に向かった。
ベンチに腰を下ろす。痛いくらい、冷たい。
すぐ後ろには海があって、びゅうびゅう風が吹きつける。持ってきたおにぎりをほおばった。梅干しのと、塩昆布の。
あたしは今日もマフラーしかつけていなくって、寒くて、しかも公園にはだれもいなくって。泣きたいきもちでいっぱいになっていた。
バイトを終えて携帯を見ると、美穂はもう店に入っているのだという。
指定されたのは駅ビルの中にあるカフェだった。母への言い訳を考える。でも思い浮かばなくって「学校の人とトラブったから」とだけ送った。そうメールを打ったのはたぶん、美穂に呼び出されたことでの予感があったからだろう。
母からの返事はなかった。
店に入ると、美穂は一番奥の、窓ぎわの席でけだるげに携帯電話をひらいていた。
たくさんのストラップがごちゃごちゃとついている。セーラー服姿じゃない美穂を見るのははじめて。別な人みたいだ。あたしに気がつくと美穂は、真顔と笑顔のあわいのような、微妙な表情で手を挙げた。
「遅かったじゃん」
亮太たち男子と話すときとは違う、低い声色で美穂は言う。視線は合わない。美穂の目はずっと携帯電話の画面に向けられていて、テーブルに両肘をついて、ストラップをカチャカチャ揺らしながらメールを打っている。
「とりま、頼みなよ」
美穂はこちらを向かないまま、左手でメニュー表を指した。
メニューをひらいたあたしは、頭を抱えた。どれを頼むべきか。どれだって、あたしの時給とそう変わらない値段をしていた。きょう働いた6時間のうち、1時間分もケーキセットに使うのはためらわれた。
「おすすめはぁ、パンケーキ」
はじめて目が合う。美穂は、期間限定のメニューを指した。
苺がたっぷりのっていて、クリームもピンクで、赤いつやつやしたソースがかかっている。ごくり。のどが上下した。
パンケーキの苺は、今まで食べたことがないくらいころころと大きくって、透明の、ゼリーのようななにかに包まれている。フォークを刺すとじゅわっと音がしそうなくらい瑞々しい。
どこを食べても甘かった。
美穂はパンケーキを食べかけのまま、ずっとメールを打っている。なんだか居心地が悪くって、窓の向こうに視線を向けた。
駅ビルの高いところにあるカフェだ。
下には普段駅まで急いで走るだけの街が、宝石箱みたいにきらめいている。上からみたらこんなに綺麗だなんて、へんなの。でもなんだか特別な気がした。
美穂が、顔を上げるまでは。
「とりま、24日はこないでくれる?」
何を言われたのかわからなくって、あたしはぎ、ぎ、と機械みたいにぎこちなく視線を彼女に向けた。美穂は忌々しげな目であたしを射抜いていた。
はじめてきちんと、長く目が合った気がする。今日? いや、出会ってからはじめてかもしれない。
「ふつうさぁ、空気読むでしょ? 女子があたし一人なんだからさあ。あたしが亮太を狙ってることくらいわかるよね?」
驚いてぽかんと口を開けているあたしを見て、美穂は逆に驚いた顔をしたあと、くつくつと笑い出した。
「ええーマジか。わかってなかったの? ウケる」
美穂の目は、三日月型に歪んでいた。
「貧乏なうえにKYって、かわいそ」
笑いながら美穂は立ち上がった。伝票を持つと「あたしが奢るからダイジョーブだよ」と笑って去っていった。
美穂のお皿には、まだ半分以上パンケーキが残っていた。つやつやの苺も、パンケーキの一番上から落とされて、皿のうえで倒れている。目の前が熱くなった。あたしは手の甲で落ちてくる涙をぬぐいながら、パンケーキを最後まで食べて家路についた。
山のあわいの駅で降りると、どこからかサイレンの音が響いていた。
母が死んだ。
火元はあたしの部屋で。
保護されてただ呆然と過ごしているうちに、母の親だという人たちがやってきた。
「結婚に反対したのをずっと後悔していたの」
そう言ってあたしを抱きしめたのは、母にはちっとも似ていない老婦人だった。
そのままあたしは関東の大きな家に引き取られていった。亮太の家よりも広かった。食卓には一汁三菜が並び、ほつれも汚れもないきれいな服が惜しみなく与えられる。
週に1回は3人でレストランへ行く。
髪の毛だってもう自分で切らなくていい。バイトなんかやめていいよと言われ、受験に落ちると塾に通わせてもらった。
そうして翌年あたしは、難関大学に一年遅れて入学することになった。
亮太に惚れたのが先だったのか──私にはもう、思い出せない。
有給を使って仕事納めを早めた私は、スーツケースを引いて、かつて薔薇のアーチがあった家の前に立っている。
はじめてここに来てからもう15年が過ぎた。
セーラー服を着ていたあのころと違って、今の私の髪の毛はもう長くって、びゅうびゅう吹きつけてくる冷たい風で目の前がまだらに見えなくなった。
いや、私が見ていたものも、そうだったのかもしれない。ところどころしか見えない、あるいは、見たいものしか見えない、そういう記憶が蘇る。
目の前には、グレーの外壁の、モダンなつくりの家があった。
薔薇のアーチなんて似つかわしくないスタイリッシュな家だ。高い塀の前には、ごろごろと角ばった石がいくつも置かれている。その合間に等間隔に植えられているのはオージープランツ。個性的な葉っぱのグレビレアや、大きくて直線的な葉が映えるコルジリネなど。
ああ、来なければよかった。
脳裏に浮かんだのは、美穂と結婚したかもしれない亮太のこと。
そのとき郵便配達のバイクが近づいてきて、インターホンを鳴らした。
「田淵さーん、冷凍のお荷物が届いてます」
慌てて踵を返した私の耳に届いたそれは、亮太の苗字じゃなかった。
「……珠々、ちゃん?」
自信なさげな弱々しい声に振り向くと、亮太だった。どこかくたびれていて、年齢も重ねていて、無精ひげがあって、くちびるの端がたぶんヘルペスでぷくんと腫れていて、それでも亮太だと、わかった。
私たちは、クリスマスムードの街から離れるように電車に乗った。彼は戸惑っていたけれど「行こう」と告げるとただそれだけで着いてきてくれた。
亮太の家は始発の駅からすぐの高校のそばにあって、いつも自転車通学していた。終点の駅から通っている私とはべつの世界の住人のようだった。
だから、こうして並んで電車に揺られていることに妙な感慨がある。
私も年齢を重ねたから、あのころみたいな、恋、というものではないのかもしれない。けれども懐かしさに胸がいっぱいになっていた。
はじめは互いに距離をさぐるような会話をしていたけれど、とにかく終点の駅までは時間があったので、時おりガコンガコンと上下に揺られながら、私たちは互いのこれまでを埋めるように話を続けた。
進学したあとに、亮太の父が急に亡くなったこと。借金があったこと。大学を中退して地元にもどったこと……。
驚いたことに、彼とは同じ大学に通っていて、同じ街に住んでいた。
そんなに近くに住んでいて会わなかったのにここで出会うなんて不思議で。
「珠々ちゃんは今なにしてるの」
「ハウスメーカーで建築士をして…ます……」
そう話すと、亮太は意外そうな顔をした。
「珠々ちゃんってさ、小説家とかなるのかと思ってた」
「ええ、なんで?」
思いもしなかったことに本気で驚いて、口調がもどった。
「いつも図書館にいたから」
「え?」
「声かけられなかったんだよね。楽しそうに見えて。話しかけたらその表情が崩れちゃうのかなって思ったり」
頬が熱い。無意味なのに私ははたはたと手で顔を扇いだ。
やがて私たちは終点にたどり着いた。山のあわいの駅はきれいになっていた。有人改札を抜けると、目の前には山を埋めるように住宅街が広がっている。時間が経つと人気のエリアが変わるなんて、思ってもみなかった。
資産家だった祖父母は、焼けて更地になったアパートの跡地を買い取っていた。曰くつきで今は「忌み地」とまで呼ばれてる。売れないかもしれない。でも困ったときになにかの役に立つように、と。
母とは折り合いが悪かったらしい。でも私にとってはただただ良い人たちだった。家族としての情みたいなものはわからなかったし、大きな家での暮らしはすこし堅苦しかった。衝突することだってたくさんあった。
けれども、ふたりがまとめて事故で亡くなったときは涙が止まらなかった。それくらいには家族だった。
それから私は最近、ついに、天涯孤独になった。
「お母さんは元気?」
亮太ははくはくと口を動かした。手に嫌な汗が流れたが、ややあって「元気だよ」と彼は言う。
「間があったから……」
「体は元気かな。心がね。母さんはもともと感情に波があるタイプでさ。落ち着いてるときと、なにかが過剰に心配になって不安定になるみたいなことがあった」
「そう、なんだ……」
私が彼女に会ったのはたった一度だけで、そのときはまるで聖母のような人だと、そう思った。
「それが父さんが亡くなってから輪をかけて不安定になってね。もともと働いたことのなかった人だったから、仕事をしようと思えなかったみたいで。俺がずっと一人でやってたの。やっと返し終わったんだ、借金」
「恨んでる……?」
「んー。……んー……いや、どうかな。そこまでじゃないと思う。だいたいの家庭にはあるじゃん。反抗期とかさ。そういうのを、ちょこっと超えたみたいな。それくらいだよ」
「そっか」
「……珠々ちゃんは?」
亮太が尋ねた。その目の奥にあるのは、訊くことに対するすこしのためらいで。明るく無邪気だった彼が持ち合わせていなかったものだ。
私はふっと笑った。
「どんなふうに話しても、重い話になっちゃうんだけど」
「……うん」
亮太がごくりと唾を飲む。
「あの日までずうっとつらかったんだよね。なんでうちは他の家と違うんだろうって。みんなが当たり前のように持っているもの、できること。それができない。でもさ」
もう忘れたはずなのに声が滲んで。のどの奥が熱くなった。だから私はすこし上を向いた。
「ママはキャンドルをつけたまま寝ちゃったことになってるけど、自殺なの」
「え……?」
「証拠はない。でも、死ぬ前におじいちゃんとおばあちゃんに手紙出してたんだ。自分が最低な人間になっていくことがつらい。母親失格だって。それでおじいちゃんとおばあちゃんが飛んできたんだけど、間に合わなかったってゆうか……。どうして自分で終わらせちゃったんだろうってずっと、ずっと考えてるよ」
亮太はなにも言わなかった。
「最低な人だって思ってたし、実際そうかもしれないけど。でもこんな幕引きにするならさあ。あたしが大人だったらとか、しんどいって言えてたらとか、いろいろ考えちゃうんだよ。……たぶん、これから先も一生ね」
彼はハンカチを差し出した?目の前が滲んでよく見えない。ほらね。こういうところが「あたし」と違うんだ。私は大人になってもハンカチなんか持ち歩いてない。
「マジで変なんだけどさ」
「うん」
「大人になってから振り返ると、親の優しかったとこばっかり思い浮かぶんだよ。手をつないで歩いた道とか。花占いしたのとか。あーあ、何を間違ったんだろうね」
すっかり前が見えなくなって、手の甲でぬぐおうとしたら、亮太はおずおずと、私の目をそっと押さえた。
「ウチ、来る?」
「え?」
「よかったら母さん、会ってく? その、ずっと心配してたんだ。母さんも珠々ちゃんのこと」
「……うん」
私たちは、更地の前から駅に向かって歩いた。どん底だったあのころとは逆に。明るいほうへ向かっていく。
「結婚は?」
「してないよ。珠々ちゃんは?」
「バツイチ。離婚したの。1年も持たなかったかなあ」
「……そう、か」
亮太は複雑な顔をした。
昔はまっ暗だった道には、等間隔に、ろうそくみたいな橙色の街灯が並んでいる。淡い光に照らされた亮太の頬が、耳が、赤く染まっているように見えるのはたぶん気のせい。
「雪……」
見上げるとふわり、ふわりと小さな雪の欠片が落ちてくる。
それはまるで花びらみたいで、私は目を閉じて、未来にあるかもしれない、なにかいいことを想像しようとした。
けれども思い浮かぶのは亮太の家のLDKばかり。今はもうないあの家、──のような温かい場所に帰ってみたいとそんなことを思っていたら、ふわりと手が包みこまれた。
驚いて見上げても、亮太と目は合わない。やっぱり、亮太に惚れたのが先なのだと私は思い直す。
彼らの新居は、もとの家から歩いて5分ほどの場所にあった。
亮太が鍵を開ける。室内は薄暗い。
薔薇の香りが立ち昇る。ワンルームのテーブルには、小さなツリーが置かれており、そのそばに赤いキャンドルが灯っている。聖母にもらったキャンドルは家ごと消えた。大人になって自分でもつくって気づいた。あの甘いにおいはきっとローズオイルだったのだ。
亮太の母は、窓ぎわで雪を眺めていた。なんだか小さくて。
しばらく驚いたように私の顔を眺めてから、顔をくしゃくしゃにして「おかえり」と、二人まとめて抱きしめた。
予感がした。進む先があの日のカヌレみたいに甘いかはわからない。
けど、それでも。
(完)




